アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

少年がひとつかみの砂を釈迦に献ず

2019-10-03 05:34:24 | 究極というものの可能性
◎行為の善悪は動機の善悪で決まる

ちょっと悪いことをしても、お金が儲かれば、あるいはスーパーリッチ、プチリッチになれさえすればよいなどと考える人がほとんどの時代。

悪いことをすれば、将来に苦しみや悲しみが起こり、善いことをすれば将来うれしいこと楽しいことが起こるという当たり前のことを信じもしないし、非科学的であって迷信だと思っている人も多い。

禅の高僧が真顔で私は来世はロバに生まれるというシーンでは、カルマの法則が輪廻転生に及ぶことを言い、輪廻転生を認めないキリスト教では、煉獄、地獄に悪を積んだ人々が底溜まる。

仏教では、十善として善行の典型を定めているが、その行為の外形が十善のどれかに当てはまれば、善行ということでもない。

※十善:不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語(でたらめを言わない)・不貪欲・不瞋恚(怒らない)・不邪見。

まずその行為の動機が善であるか悪であるかが問われる。動機が良ければ、見た目悪行でも善となり、動機が悪ければ、見た目善行でも悪となる。

行為の見た目が十善であっても、その行為の真の評価は動機による。

さらにその善行の善い報いを期待するためには、そんなことを塵ほども思ってはならない。思った瞬間に果報は実現したことになるからである。

昔、ある少年はひとつかみの砂を、本当に砂金だと信じ込んで、お釈迦様に捧げたという。その少年は、次の輪廻転生で、アショーカ王として誕生してきたという。

誠に人は、一挙手一投足、一言一句なおざりにすべきではないと思う。
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