アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ノン・デュアリティの実感とは何か

2019-08-05 03:21:03 | 現代冥想の到達点
◎異郷の客の悲しみ

ノン・デュアリティの実感が、今ホットなトピックらしい。

生死一如と口で唱えることは恐ろしく簡単だが、生死一如を生きるのは、悲しみの極みであり、孤独の極みであるとする。それはなぜだろうか。

ダンテス・ダイジの詩集「絶対無の戯れから」
『私は私という心身の
異郷の客であり
何一つとして
私のかつて見知った事柄はない
この悲しみが
人間に理解できるだろうか

私達はこの世では孤独であり続ける
私達の眼は
私達の故郷を見知らぬものとして眺め
私達の家族を初めて見る

これは私達の眼がかすんだゆえではない
私達の眼がより透明になったせいだ
何もかもが常に未知なものとしてあり
何もかもが常に新しい

何もかもが未知な新しさであれば
私達の脳髄は
尽虚空中に砕破する

死はなんと私達の身近にあったことだろう
最も身近な死だけが
人類の唯一最大の教師だ
手足を放ち去ろう未知の虚空に
もともとありもしない手と足を』
(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ/森北出版p118-119から引用)

変幻極まりない今ここという時間のない刹那と刹那の間に隙間があるらしい。
先の刹那を見知っても次の刹那は全く見知らぬ世界として広がる。そして自分という心身すら、家族すら、その透徹した孤独感の中で、初めて見る。

明らかに個人はあるが、それには常に死がつきまとう。それであって初めて、何もかも新しく、何もかも見知らぬ、孤独な世界が真実の世界であることに気づく。

この実感は、葉隠など武士道者の言でも拾うことができる。

武士(もののふ)の学ぶ教へは 押しなべて
そのきはめには 死の一つなり
(塚原 卜伝)

極楽も地獄も先ずは
有明の月の
心にかかる雲もなし
(上杉謙信/謙信家記)

毎朝毎夕、改めて死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生涯落度なく、家業を仕果たすべきなり
(葉隠)

生死を離るべき事、武士たるものは、生死を離れねば何事も役に立たず、万能一心と云ふも、有心のやうに聞ゆれども、実は生死を離れたることなり。その上にて、如何様の手柄もさるるものなり。芸能などは道に引入るる縁迄なり
(葉隠)


全体については、このパートの遥かに前方に『神の絶対無の中に夢見続ける宇宙』という表現を置いてある。個もあって全体もあるというのは、自らは神として夢の宇宙を戯れながら、人間として孤独の極み、悲しみの極みを背負いながら、何もかも見知らぬ世界を社会的不適応者として生きるということなのだろう。

社会的不適応者が社会を生きるのを異類中行と呼び、聖胎長養とも呼ぶ。

七つの身体の基礎はこの辺にある。
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