アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

「私」というイメージが死ぬ

2019-05-15 05:29:53 | 究極というものの可能性
◎死後は「私」は人々の中に現れる

クリシュナムルティが複数の人物との会話の中で、自分が「私」というイメージであるとした場合の、その死について言及した部分がある。

それによると、まず死とは生物学的な死がある。そこで、「私」がイメージ以外の何ものでもなければ、死んだのは「私」というイメージが死んだのだとクリシュナムルティは断定する。

死は、自分の思考の死や自分というイメージの死という限定的な、世界全体からみれば小さい出来事だと、人は思っている。

ところが意に反して、そんなちっぽけなものではないと彼は言う。確かに死は現実と、私というイメージの終わり、一切の記憶の終焉であり、時間が終わり、過去も現在もないという意味での時間が終わる。

だが、クリシュナムルティは、私というイメージは、もともと他の人々各人のイメージと連続性を持っているとし、私の死に際して、私の死後は、私のイメージは人々の中に現れるとする。
(参照:生の全体性/クリシュナムルティ/平河出版社の対話七)

人Aは、死によって他の人々と連続性を持っているアートマンに帰一し、死後は、再生に際して人Aとして生まれてくるという説明として聞けば、ダンテス・ダイジの輪廻転生論である、Aが死にA‘が転生する理屈とほぼ同じである。
またチベット死者の書のように肉体死に際して
「今ここ」である原初の光に帰っていくことも示す。

クリシュナムルティの使っているテクニカル・タームは、ダンテス・ダイジともチベット死者の書とも異なるが、同じようなことを言っている。
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