アヴァンギャルド精神世界

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善悪不測

2016-09-17 06:58:27 | 古神道の手振り
◎人はただ、神を信じ神に随い善を行い悪を行わない

出口王仁三郎の善悪観は、神秘学的世界観に立脚しながらも、精密に世の冷厳な現実を見据えている。霊界物語の「善悪不測」の引用部分は短文だが、その意味するところは深い。

西洋の哲学者の言に天佑自助というのがあるが、自助努力として善事を一つ為すためには往々にしてそれの倍もの悪事を為すものである。人は善だけ行って永遠の幸福を生み出すことは到底できない。よって人生には絶対の善もなければ絶対の悪もない。

このように陰陽善悪美醜が入り雑じって宇宙は完成しているものである。

神秘学的に見れば、宇宙は霊力体でできており、霊は善で、体は悪である。ところが体より発する力は、善悪入り雑じっている。出口王仁三郎は、善悪混淆のこの力こそ神力であり、神の威徳であるから善悪不二にして、美醜一如であるといきなり論理がジャンプする。

善悪不二にして、美醜一如は、個別性のない世界だからアートマン。そこから個別性の属性たる善悪美醜男女陰陽が展開していく様を実地に目撃せねば、こういう論理のジャンプは起こらないのではないか。

行為の善悪は測りがたいとなれば、目先のきく人はどんな悪いことをやってもいいんだと早合点する場合もあるが、人はただ、神を信じ、神に随い、なるべく善を行い、悪を行わない、人の行為の善悪を決めつけず、ただ惟神(かんながら)の道を遵奉するしかない。

以下は霊界物語第六巻からの引用だが、この文章は、 野立彦神、野立姫神が、大洪水による世界立て直し後に天教山火口に飛び込み根底の国に赴いたというクンダリーニ・ヨーガ的シーンの後に置かれている。神慮図りがたし。

『智慧暗く、力弱き人間は、どうしても偉大なる神の救ひを求めねば、到底自力を以て吾が身の犯せる身魂の罪を償ふことは不可能なり。故に人はただ、神を信じ、神に随ひ成可く善を行ひ、悪を退け以て天地経綸の司宰者たるべき本分を尽すべきなり。

西哲の言にいふ、『神は自ら助くるものを助く』と。

しかり。されど蓋は有限的にして、人間たるもの到底絶対的に身魂の永遠的幸福を生み出すことは不可能なり。人は一つの善事をなさむとすれば、必ずやそれに倍するの悪事を不知不識なしつつあるなり。

故に人生には絶対的の善も無ければ、また絶対的の悪も無し。善中悪あり、悪中善あり、水中火あり、火中水あり、陰中陽あり、陽中陰あり、陰陽善悪相混じ、美醜明暗相交はりて、宇宙の一切は完成するものなり。故にある一派の宗派の唱ふる如き善悪の真の区別は、人間は愚、神といへどもこれを正確に判別し給ふことは出来ざるべし。

 如何とならば神は万物を造り給ふに際し、霊力体の三大元を以てこれを創造し給ふ。霊とは善にして、体とは悪なり。しかして霊体より発生する力は、これ善悪混淆なり。これを宇宙の力といひ、または神力と称し、神の威徳と云ふ。故に善悪不二にして、美醜一如たるは、宇宙の真相なり。

 重く濁れるものは地となり、軽く清きものは天となる。しかるに大空のみにては、一切の万物発育するの場所なく、また大地のみにては、正神の空気を吸収すること能はず、天地合体、陰陽相和して、宇宙一切は永遠に保持さるるなり。また善悪は時、所、位によりて善も悪となり、悪もまた善となることあり。実に善悪の標準は複雑にして、容易に人心小智の判知すべき限りにあらず。故に善悪の審判は、宇宙の大元霊たる大神のみ、その権限を有し給ひ、吾人はすべての善悪を審判するの資格は絶対無きものなり。

 妄に人を審判は、大神の職権を侵すものにして、僣越の限りと言ふべし。
 唯々人は吾が身の悪を改め、善に遷ることのみを考へ、決して他人の審判をなすべき資格の無きものなることを考ふべきなり。

 吾を愛するもの必ずしも善人に非ず、吾を苦しむるもの必ずしも悪人ならずとせば、唯々吾人は、善悪愛憎の外に超然として、惟神の道を遵奉するより外無しと知るべし。』
(霊界物語第六巻第二〇章 善悪不測から引用)
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