アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

お前、神様に祈ったか

2012-09-18 05:52:03 | 冥想アヴァンギャルド
◎無私で祈る

キョーセラの創業者稲盛和夫と霊能力者本山博の対話から、稲盛氏の発言。

『稲盛

私がまだ若いころの話ですが、夜中にファインセラミックスの部品を作る工場を見回っていると、一人の技術者が窯(かま)の横で半べそをかいていたんです。

「どうしたんだ」と声をかけたら、「一生懸命やっているのに、何日徹夜してもなかなか
できないんです」と答えるわけです。
私は、「お前、神様に祈ったか」と、彼に問いました。

本当に全力を尽くしたのか、そうであれば、後は神に祈るしかないという意味だったのです。彼はすぐにはピンとこなかったようですが、再び勇気を奮い起こして開発に取り組み、見事に難しい製品を作り上げたんです。これは、うちの会社で今も語り継がれるエピソードになっています。

本当に無心になって、精魂込めてやったのであれば、人は自然と神様にすがり、神様に祈ろうとするはずです。また、世の中にない、まったく新しい製品を開発するときにも、神に祈るようなことが往々にしてあります。

期せずして先生が今おっしゃったように、ものづくりもすべて神様の秩序の中ででき上がっているのかもしれません。』
(人間の本質/稲盛和夫・本山博/PHP P159-160から引用)

これは、事上磨錬の典型例。

禅では禅語録そのものには祈るシーンなんて出て来ないが、あらゆる生き物をこの世から救済したいとか、煩悩を断じ尽くしたいとか、仏法の学問は広大だが学び尽くしたいとか、
仏の道は無上だがかならず成仏したいという誓願がその前にある。つまり祈りが先に置かれていて、それでもってZEN冥想なのである。

稲盛氏は日常祈ることを習慣にしている人さえ少ないと指摘している。そんな具合だと、日常の折節や、ニュースで頭のおかしくなった人を見たり聞いたりするのだが、祈る習慣すらなければ、そんな人がどんどん増えるのも仕方のないことだと思う。敬虔もなく無私もなく、もちろん神の居所が心の内になければ、人は容易に精神のバランスを崩すものだと思う。

人間の営為には結局救済などない。しかし、そこに一片の光明を祈れば何かが起きることもある。
何かを期待して坐ったりしてはいけないのだが、無私で祈るのは良い。その無私こそが難しいのだが、それでも日々祈り、坐る。


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


悟りとは何か
コメント