アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

行を迷中に立つるは

2012-09-06 05:58:12 | 只管打坐
◎迷いの中で坐る

道元禅師の学道用心集から。
『識るべし、行を迷中に立つるは、証を覚前に獲(う)るものなることを。
時に始めて船筏の昨夢を知って、永く藤蛇の旧見を断ず。
これ仏の強為にあらず、機の周旋せしむる所なり。
況んや行の招く所は証なり。
自家の宝蔵、外より来たらず。証の使う所は行なり、心地の蹤跡豈に廻転すべけんや。

(現代語訳)
知るべきである、迷いの中で修行を始めることは、〔そのまま〕証(さと)りを、覚る前に得ることであることを。

この時にはじめて〔迷いの中の修行が、そのまま証りであることを知って〕こちら(迷い)の岸からあちら(証り) の岸に河を船や筏で渡るということが、昨日の夢のように無用になってしまうことを知って、永遠に藤蔓を見て蛇と見誤るような旧来の見方を断ち切るのである。これは、仏が強引になされるのではない、自ずから仏のはたらきが熟してめぐりあわせたものである。

言うまでもなく、修行が招くところは証りである。〔招くと言っても〕自分の家の宝蔵は外からやって来るのではない。また、証りが使い用いるところが修行である、〔修行によらなければ〕心の跡かたがどうして変わることがあろう。』
(道元禅師全集14巻P54/春秋社から引用)


証っていないのだから、迷いの中で坐るしかない。

宝くじを買う時に言うだろう、宝くじを買わなければ当たることもない。サッカーでシュートを打つ時に言うだろう、シュートを打たなければゴールに入ることはないって。
そこで、坐らなければ、証ることもないと道元は言う。

行すなわち只管打坐は証りを招くと言うが、悟っていない者が「只管打坐は証りを招く」などと主張しても体験の裏付けがない以上それは嘘っぱちである。証った者がそれを語るのは真実である。

未だ証らざる者にとっては、「只管打坐は証りを招く」という師匠の発言を信じて坐るしかないのである。


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