アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

マラソンの真髄(瀬古利彦)

2010-09-04 06:12:19 | 時代のおわり
◎崖っぷちのところで練習する

瀬古利彦は往年の日本のトップ・ランナーで、日本が不参加だったモスクワ・オリンピックの頃が全盛期であったため、惜しくもオリンピックでメダルを獲得することなくその競技人生を終えた人物。そのグルである中村清監督は、元憲兵隊長であり、自分への連続ビンタなど独特の精神主義的薫陶で知られる。

瀬古利彦の著書には、マラソンとは、自力のスポーツだが、勝つためには他力の部分があることを認めている部分がある。外側から来るあるものがないと35キロ過ぎからの本当の勝負どころで勝てないことを知っているのである。

マラソンは人と人の勝負だが、「如来、来るが如し」がないと本物ではない冥想修行と、その点で似たところがある。

『一日一生のつもりで、泥くさい練習を継続する』
(マラソンの真髄/瀬古俊彦/ベースボールマガジン社から引用。以下の『』内も同書からの引用)
たとえ一日三分間しかメディテーションに当てられなくても、三分一生のつもりでやるしかない。

『力を出し切る訓練をしていると、レースでバカ力を出せるようになる』
この本はマラソンに一日のほとんどを充てられている人の本なので、冥想修行でいえば、一日の大半を修行に充てられる環境の人にはこれが言えると思う。日に8時間以上働いている5分間冥想の人にとっては、冥想に力を出し切るどころか、必ずしも充分に深まることのないことが多いのだろうが、坐るしかない。

『時計に頼らず、ペース感覚を磨くことによって、レースではずさない選手になれる』
新聞、雑誌、テレビ、ネットの評判に惑わされず、坐る。

『一度うまく走れても、それを二度、三度と続けられないと、本物の力とはいえない。人間には「まぐれ当たり」がある』
まぐれ当たりであってもその人がそれで充分と思えばそれで一生問題ない人もいる。しかし一度見神、見性してもそれに飽き足らない人もいるし、またそれは単に菩薩になったに過ぎないとし、更に窮極を求めていく人もいる。

『走る競技は人間の限界を超えたところで勝負が決まる生理現象を超えている種目だから、崖っぷちのところで練習をするのが当たり前』
本格的な専門の冥想修行者なら、過去を捨て、家族を捨て、職業を捨て、冥想するしかない崖っぷちにあるものだから、いつも崖っぷちで練習している。おまけに冥想修行のぎりぎりのところでは、生死を厭わない姿勢が、常に問われるから、こんなことは当たり前と言える。





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