アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

安岡正篤の最期

2010-08-01 06:56:08 | 究極というものの可能性
◎静入への低い関心

安岡正篤は、1983年85歳で病没。

『戦前から高名な陽明学者として政府顧問となり、終戦の詔勅にも筆を加えた---草案に「永遠の平和を確保せんとす」とあったのを「万世のために太平を開かんと欲す」と改めさせた---という安岡正篤は、昭和58年3月、九段の料亭で彼を囲む会に出席し、そこで彼を尊敬するという四十五歳の、レストラン、芸能プロダクションなどを経営する女性実業家兼占術家の細木数子と意気投合し、既に妻を亡なっていた彼は、その夏、彼女に捺印つきの婚約誓約書を渡すに至った。

ところが九月はじめ安岡が胃痛で倒れてから、細木が安岡家を訪れても家族から面会をことわられるようになり、そのうち小康状態を得た正篤は十月四日、高野山にいる実兄九十二歳の大僧正のもとへ旅行に出てしまった。実は家族から避難させられたのである。

高野山で正篤は兄と食事中、吐血して、大阪の住友病院に運ばれた。

細木は安岡のゆくえを教えられないまま、十月末、役所に正式の婚姻届けを出し、正篤の長男に押し返される騒ぎをひき起こし、告訴した。安岡家のほうでは、正篤は昭和五十四年秋、前立腺肥大の手術を受けてから、老人ボケの症状が甚だしくなり、右の婚約誓約書は無効であると申し立てた。---

これが、かつて二十歳も年上の吉田茂から「老師」と呼ばれ、以後歴代の首相、財界の巨頭から天海僧正のごとく師礼をとられ、日本の右翼思想の支柱と言われた高士の、死を迎えての珍スキャンダルであった。

しかし笹川良一は面白がっていう。「この恋愛問題(!)がなければ、安岡の一生はあまりにも無味乾燥の一代であったと思う」』
(人間臨終図巻3/山田風太郎/徳間書店から引用)

安岡正篤の右翼思想に与えた影響には興味がないが、陽明学者でありながら、「端坐澄黙して静一を求める冥想」をあまりお勧めした様子がないところに関心がある。もしそうであれば、政財界の有力者連から王陽明ばりのメディテーションが広まったはずだからである。仮にそういう動きをしたならば、日本は縦社会だからかつてのQCや今のエコ並に生活の中に冥想が浸透したに違いない。

そして冥想の先には、王陽明の体験も踏まえて、悟り静入)などがあるはずだが、そこもあまり強調しなかったようである。

かつまた彼が天海僧正ばりのスピリチュアリストならば、日本全体の神霊界レベルでのグランド・デザインがあってしかるべきだったと思うが、そんな感じでもなかったのだろう。




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