アヴァンギャルド精神世界

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親鸞の女犯偈

2006-12-04 06:02:01 | マントラ禅(冥想法7)
◎性欲がメインではない

親鸞は、19才の時に、法隆寺参詣の帰途、大阪府南河内郡にある聖徳太子ゆかりの磯長御廟に三日の参籠をした。その時に「あなたの余命は10年あまりである」という衝撃の夢の御告げを受けた。

次に26才の時の太陽の火を取る玉の夢告があった。こういう夢を見るということは既に個人的自我の強固な殻がかなり揺らいで来ているものである。

更に、10年になろうとする28才年の暮、比叡山の大乗院で、如意輪観音から夢告を受けた。それは、
「善いかな、善いかな、あなたの願いは、まさに実現(満足)しようとしている
善いかな、善いかな、私の願いもまた、実現(満足)している」であって
この時点で、親鸞にとっては、寿命が29歳で尽きるかどうかなどということは問題にならなくなっていたのだろうと思う。

さて29歳の時の六角堂の百日参籠の九十五日目に親鸞が受けた女犯偈は次のようなもの
「あなた(修行者)が、たとえ宿世のカルマによって女犯するとしても
私(救世菩薩)は玉女の身となって犯せられましょう 
一生の間よく添いとげて(荘厳して)
臨終には引導を渡して極楽に生まれ変わらせて上げましょう」

青年期の性欲の懊悩がこれによって晴らされ、親鸞は晴れて妻帯の決意をする原因となったのがこの女犯偈であると言われている。定説では、僧妻帯の禁を公然と破ったことが評価されているようだが、人生の苦悩の中で、性欲が,常にそれほど重要な位置を占めているわけではない。生きることそのものの苦悩への回答としてこの女犯偈がどのような意味があるかということの方がメインであるはず。

親鸞は、個である自らを男性とみている以上は、全体である宇宙そのものを女性と観じていたのだろう。そのポジションにおいて、救世観音を相手にした女犯とは、大慈大悲という宇宙そのものの属性の一つに没入することである。こうした見方が救世観音の夢告として出てきたからこそ、女犯偈で生きることそのものの苦悩への解決が与えられたと評価できるものであったのではないだろうか。

親鸞教団は、結果として僧の妻帯や民衆への拡大となったが、親鸞個人の苦悩が解決された道筋は、このようにそれだけに留まるものではなかったと思う。

もともと性愛冥想と呼ばれるものは、男性側の冥想法であって、女性側のものではないし、彼がそれにチャレンジしたわけでもないだろう。


    1日1善。1日1クリ。

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