ブーゲンビリアのきちきち日記

神奈川の米軍基地のある街から毎日更新。猫と花と沖縄が好き。基地と原発はいらない。

星が丘の星は空の星

2006年08月10日 08時15分12秒 | 星が丘ビンボー物語
「星が丘の星はなんの星」という絵本がある。友人に買ってと勧められたけれど、買わなかった。ずいぶん前のことで詳しい内容については覚えていない。ただ、不愉快になったことはたしかなのだ。「平和」を訴えるために今もここに住んでいる人の気持ちは無視され、プロパガンダとして、絵本にした、と思えた。「星が丘の星は空の星」だと思いたい。こどものころは星がきれいで、星の観察会などもあった。北風子供会の副委員長だったわたしは、夏休みにはラジオ体操の時の出席カードに印を押す係だった。1クラス50人の時代で、7クラスあった。星が丘小学校は今も市内全校でも人数が多い小学校だ。

星が丘の星は戦前は陸軍の星で、戦後は米軍の星だという。星が丘とはわたしが生まれ、育った街で、今も同じ場所に住んでいる。だからといって気に入っているわけではなく、隙あらば引っ越したいと思っている。一言では言い表せない思いがあるけれど、「軍都」相模原の歴史について書きたいと思ったらここから書くことになるだろう。自分史ができそうだ。

教育委員会の地名調査報告書1984年版によると、「昭和13年(1938)陸軍造幣廠の移転により、勤務者の628戸の住宅が造られ陸軍の徽章にちなんで、星が丘住宅と呼ばれた。」とある。呼ばれたのであって、地名番地は上溝だった。正式に星が丘1丁目になったのは昭和43年(1968)7月だと書かれている。わたしの記憶ともずれているけれど、たぶんこれが正解なのだろう。ただ、他の資料にはもう少し具体的なことが書かれていた。図書館でかなり以前にみた。星が丘公民館か自治会でまとめたもので、住民が書いたものの中に、地名はみんなで話し合って決めた、緑が丘、星が丘などの中から「星がきれいだから」星が丘に決めたとあった。敗戦の街の、「貧しい人たち」の集まりでありながら、この自治と「市民」をわたしは誇りに思う。その小冊子を探しているのだが見あたらないのである。

写真は沖縄・辺野古で施設局と対峙する人々。今ではここに写っている人たちとお会いすることができ、連帯している。熱い闘いの日々は終わってはいない。人はどう生きるべきか問われている。この闘いがあるから、相模原でわたしもやめられないのだ。


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2 コメント

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Unknown (タタ)
2006-08-13 01:04:47
「ビンボー人」ではなく「貧しい人たち」という表\現にした方が良いと思います、馬鹿にしている気がします。
タタさま (ブーゲンビリア)
2006-08-13 01:49:40
コメントありがとうございました。

おっしゃるとおりだと思いますので、書き換えました。