長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

星なき夜の行軍

2011年07月07日 23時59分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 新暦の7月7日は七夕じゃない。
 「ママ、お星さま見えなかったね…」とつぶやく子どもたちが不憫なので、無理な年中行事はしないほうがいいんじゃないかなァ…と思う。
 それに、これこれこういうわけで、七夕は旧暦でやることにしましたョ、と教えるほうが、子どもたちにも物事の成り立ちってものが分かって、いいのではないだろうか。
 今あることは、突然、昨日や今日できたことじゃない。来歴というものがあるのだ。一夜にして出来たのは、秀吉くんの努力とハッタリによるお城ぐらいなもので。
 ♪昨日はきょうの昔なり…。ご存じ長唄『二人椀久』にもございます。

 今日は旧暦だと、平成廿三年六月七日。
 西日本一帯が梅雨末期の大豪雨に襲われていた西暦2011年、私は相州から武蔵野に小返ししていたが、1582年、羽柴秀吉はやはり暴風雨のなか、備中高松城から大返しの最中だった。
 運命の天正十年六月二日、わが心の星・信長くんは山城国に果て、どういう天のめぐり合わせでか、誰よりも早くその報を手に入れたサルちゃんは、四日には水攻めしていた高松城主の腹を切らせて毛利と講和し、五日、撤収して明智光秀を討つために畿内に向かった。
 七日。430年前の水無月七日、秀吉軍は姫路城まで戻ってきて、そのまま九日まで滞在し、兵力を養生した。
 岡山近郊の西北西にある備中高松城から播磨国・姫路城までだいたい80キロ。どこまで続くぬかるみぞ…とうそぶく間もなく彼らは行軍した。

 それにつけても、なんか怪しい。こんなに手際がいいということは、準備していた、つまり予見していたということだ。第一、信長くんだって、秀吉に呼ばれなければ本能寺に逗留することもなかったのだ。

 光秀が自分より格下の秀吉と結ぶことはまずあり得ない。でも秀吉は、こうなることを、きっと知っていたに違いない。いや、ひょっとすると、光秀本人がそうと気付かないうちに、無意識下に焚きつけたぐらいのことはしたのじゃあるまいか。
 天下を取ったあとの秀吉が家康に対する気の遣い方もおかしい。そこまで…というぐらい配慮している。秀吉が知っていたことを家康も知っていたのではないだろうか。光秀の係累を重用したのは、秀吉への無言の圧力なのではないのか。

 民主主義の現代でさえ、政治は腹の探り合い、化かし合いだ。すべてが水面下での根回し手回しによって決まっている。
 福岡は中洲のbarで、ジャンケン最強の名物ママさんに、三本勝負を手もなくストレート負けしてしまう素直な私には、もはや想像だに及ばぬ領域である。

 本能寺の変よりも、私はそのあと、山崎の合戦に至るもろもろの事どもに、ものすごく作為的な違和を、感じるのである。
 星の見えない夜には、地上では有象無象がうごめいて、歴史の闇を生みだしているのだ。
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ニッポン漂泊 城編

2011年04月09日 00時09分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
ニッポン漂泊 城編
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われ今日も生きて在り

2011年03月14日 01時50分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 「近頃は 哀れいかにと問ふ人も 問はれる人も 涙なりけり」
 という歌を、むかし、戊辰戦争のころの逸話をまとめた本で読んだことがある。
 慶応四年の江戸の街角で知人に会って、近ごろはほんとにもう…無惨だよね、あなたのほうはどんな具合ですか…?と訊くほうも訊かれるほうも、ただただ涙…なのである。
 記憶頼みに書いているので、少し違っているかもしれない。

 昨年の六月、友人の演奏会が仙台であり、その機会に便乗して、ほんの一日半だったが、仙台平野を電車で旅した。それまで海産物の美味しい街というイメージが強かった仙台だったのだが、車窓に広がる仙台平野は、豊かな穀倉地帯だった。ササニシキ誕生の地…と大きな文字がサイロに掲げられ、遙か地平の彼方まで、青々とした美しい耕作地が拡がっていた。
 仙台から東北本線に乗り、小牛田で陸羽東線に乗り換えて有備館で降りる。伊達政宗が青葉城に移るまで居城としていた岩出山城へ登り、しずかな城址で小鳥の囀りを聞いてから岩出山駅まで歩き、再び陸羽東線、石巻線を乗り継ぎ、石巻まで来た。
 残念に思いながら時間の都合でそのまま急ぎ仙石線に乗り、松島湾のうつくしい海岸線を眺めながら多賀城。いにしえの国府跡へ向かい、路肩の赤いヒナゲシに古代の面影を結ぶ。そうして東北本線の塩釜からバスに揺られ、愛宕山もかくや、何段あるか数えきれない急な石段を、狛犬に励まされながら上り、塩竈神社を参詣。神社の境内からみはるかした湊町は、夕焼けに染まっていて本当にうつくしかった。
 さらに歩いて仙石線の本塩釜にたどりつき、再び仙台に戻ってきたときには、日はとっぷり暮れていた。私もすっかりくたびれていたが、塩釜の鮨屋で巻いてもらったお土産を手に、ほろ酔い加減でいい心持ちになっていた。
 仙石線から新幹線への乗り換えコンコースの中に「伊達な警察官になろう!」という県警のポスターを発見したときには、旅の興、しっかりその映像をカメラに収めたものだった。

 一昨日からのニュース映像を見るにつけ、あの愉しかった旅の想い出が胸を締め付ける。

 そうして涙ぐんでいる私の身の回りも、まだ時折ゆさゆさと、余震で部屋が揺れている。
 今日から輪番制の停電だという。あまりに都会生活の便利さに慣れ過ぎると、かえって不便なのだった。
 そういえば、お月さまが九曜紋に見えるほど乱視でド近眼の私は、二十代のころ、コンタクトレンズも眼鏡もない無人島に漂着してしまった時の用心に、裸眼で生活できる訓練を、時々していたものだった。
 …すっかり忘れていた。
 もはや、どんな慰めの言葉も、私には安易に口にできない。
 ただただ、みなさん、どうぞ、ご無事で…。
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裏街道をゆく①遠江の峠みち

2011年01月01日 02時30分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 ちょうど十年ほど前の二月だったか三月だったか、ただひたすら列車に乗り、郡山から磐越西線、そして会津若松で只見線に乗り換え、小出から越後湯沢に出た。
 只見線の車窓は、もう春だというのに雪、雪、雪。瞳のなかに雪の記憶だけ残して、私は新幹線に乗って生暖かい風の吹く東京へ戻ってきた。

 その車中で、私は懐かしい人に出会った。小学生のとき読んだ松谷みよ子の『まえがみ太郎』に出てくる、突然の洪水に備えて、常に頭に小舟を括りつけている格好の里人そのままの、枯れ枝のようにスレンダーな人に。
 そのたとえは誰に話しても伝わらないだろうから、そのままあの雪景色とともに心の奥底に深くしまっていたのだが、今宵、新暦の新年を迎えるにあたり、ついと、♪お正月さんはいいもんだ……という歌詞が浮かんだ。
 これは、本の文字からの記憶なのでどういうメロディになるのか分からないのだけれど、やはり『まえがみ太郎』の文中に出てきた歌だったと思う。ゆずり葉に乗って、お正月さんは突然、まえがみ太郎の家だったか、おじいさんの家だったかを訪れる。

 子どものころから周囲の期待を裏切ってばかりいたので、すっかり偏向的になってしまった。
 ジャスト・ミートじゃないものに惹かれる。
 「巨人・大鵬・玉子焼き」なんて思いもよらない。当たり前のものをありきたりの価値観で賞翫すると、自分の存在意義が失くなってしまうような気がする。…というより、その直球度合いが気恥ずかしい。
 好んでその正反対のものを偏愛し、どこか傷のあるものに惹かれた。
 正攻法の大道をただ考えもなく直進するのも詰まらなく思えて、脇道を見つけるとここぞとばかりに潜り込み、やたらと横道へ逸れてしまう。

 十代終わり、ジャズのスタンダードナンバーが好きで、サッチモの唄真似に磨きをかけていたころ、「明るい表通りで」…Sunny side of the streetを、クラリネットで吹いてみたけれど、言い知れぬ諦観に満ちた、切なくやる瀬ないメロディだ。
 陽のあたる場所…のはずなのに、なんだか寂しい。無理やり青空に向かって口笛吹いてるような曲調は、全然明るくなくて、人間って日なたにいても…いや日なたにいるからこそ、失望感がつのる場合もあるのだった。
 そういえばそのころ丸谷才一の『横しぐれ』を読むのが、友人の間で流行っていたのだが、どうしたわけだか、全然内容が想い出せない。山頭火の「後ろ姿のしぐれていくか」にまつわる話だったような気がするのだけれども。
 
 さて、古くは正道、本道だったのに、世の中がすっかり変わってしまって、裏道のようになってしまったものがある。
 敷島の日本列島の内ばかりをあちこち旅行していたら、旧跡の、自分が行きたかったところには大概行ってしまっていた。
 しかし、人間、因果なもので、何の密命も帯びていないのに漂泊の想いやまず…それでも旅をせずにはいられない。
 関西への旅行帰りに、いつもは通過してしまう遠州か駿河で、一息つくことにした。

 ♪西行法師は家を出て…長唄『時雨西行』を口ずさみながら、あまりにも一時流行ったので考えたこともなかったが、ふと、小夜の中山へ行ってみようかという気になった。
 それに、旧東海道は、もはや天下の大道ではない。国道1号線にその責務をゆずり、隠遁する道なのだ。私は西の日坂方面から辿るので、まさに西行法師と同じ感覚である。

 尾根へ出ると、すっかり一面の茶畑。山の斜面も向こうの谷も、さらに向こうの山の斜面も、何面もの茶畑が、天と地の間にある。静岡のお茶栽培は、江戸幕府が亡くなって、失業したお侍さんたちが入植したものだそうだから、じつに立派に丹精したものだ。
 もう傾きかけた12月の陽光が、きらめきながらきれいに剪定された茶畑を照らしている。山を渡る風が冷たい。
 登りはそうでもなかったが、金谷へ下りて行くその坂道が、あまりに急勾配で、難儀した。
 こんなにも明るく、夕陽のあたる坂道なのに、とにかく心細い。一ノ谷兜のように峻厳で、自分の足元が滑り落ちていくようで、気が気ではないのだ。
 どうにか通り過ぎることができて安堵して、思わず知らず涙が出てきたのは、風の寒さばかりではない。いにしえ人がこの山を越えるさまを想像すると、いじらしい。昔の人はたいしたもんだ。よくまあ、こんなところを自分の足で歩いた。
 しかも、今は開けて茶畑になっているけれど、鬱蒼とした樹々に覆われた、恐ろしい山道だったろう。もとより人間なんて、ちっぽけなものだ。
 旅は、物見遊山ではなくて、修行だ。
 まだ陽の残る麓で、私は大層ホッとして、自分の生きてある身を有難く思った。

 「年長けて また越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山」
 昔は、お誕生日という概念がなかったので、お正月が来ると一つ、年をとった。
 こう、指を折って数えてみたら、自分でもビックリするほど、いつの間にか年をとっていた。
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岐阜と、名づける

2010年11月05日 12時52分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 「岐阜と、名付ける」
 久しぶりに岐阜へ来て、もうこのセリフを20回ぐらい言ってしまった。
 稲葉山城の天守閣からはるか下天をながむれば、どうしたってノブナガくんの心境にシンクロせざるを得ない。

 初めて岐阜を訪れたのは、まだ芸名が杵屋衛蝶のときで、名和昆虫博物館で岐阜蝶のテレカを喜び勇んでゲットしたのだった。
 このテレカは、そのころ、現・松緑が二代目の辰之助を襲名した折の、蝶の小袖姿の「寿曽我対面」の五郎テレカや、自分の千社札とかといっしょに手帳の内ポケットに入れて、いつも持ち歩いていた。友人が揚羽蝶の紋の入った暖簾をプレゼントしてくれたり、名前にキャラが入ってる役得、とでも申しましょうか、実に有難いことで、日々愉しかった。
 前名と別れるときは、さみしかったものである。

 ギフチョウは、アゲハチョウの斑紋を、虎斑にアレンジしたような美しい翅の文様を持つ。すごいシャレ者、伊達な蝶なのだ。自分がトラ年のせいもあって、そこはかとない、夢見るような儚げな白い蝶が好きな私でも、ギフチョウには密かにシンパシィを感じている。
 人間、自分と似た要素を持つものには、無条件でシンパシィを感じてしまうものである。

 織田信長は平氏の子孫ということになっているから、五つ割木瓜のほかに、平家の紋である揚羽蝶の柄なども好んで着用していたらしい。いったん死んだように蛹になって、再び華麗な姿に生まれ変わる蝶は、命を張って生きている業態の者にとっても、憧れの存在ではあったろう。それになにより、美しい。
 そして、美しいのに、自分の存在に疑問を持つかのように、ふらふらしている。
 きれいなのに心細げで、可愛い。…どうしたって、応援したくなる要素を翅に標榜して、中空を彷徨っているもの、それが蝶なのだ。

 武家が好む柄にトンボ柄がある。日本の国を表す秋津虫とも、勝ち虫とも呼ばれていたから、当然のキャラ遣いである。
 旗本の末裔である友人は、好んでトンボ柄のものを持っている。彼は源氏であるから、私が蝶キャラグッズを持っていると、え゛~~それ平家じゃん、と嫌そうな顔をした。
 その嫌そうな顔が見たくて、私は人様から頂いたハナエモリのハンカチやらアナスイのお財布やらを、ことさらに明示した。

 岐阜に行ったら、必ず吉照庵に寄る。荻窪の本村庵によく似た、細身のお蕎麦がものすごくオイシイ、蕎麦の名店である。
 以前は旧家のゆったりとした店構えだったが、場所が変わって、たいへんモダンできれいなお店に生まれ変わっていた。味は変わらず美味しかった。

 さてこれから、永禄十一年(1568)九月、足利義昭を奉じて京に上った信長くんにシンクロして西を目指すのである。
 しかし、美濃平尾に着く前に、私の目の前に犀川が。
 …墨俣城址にはやっぱり寄らねばなるまい。美濃攻略のための足がかりが藤吉郎一夜城の墨俣城だから、ちょっと手順が逆になるけれども。

 川風に吹かれながら、長良川沿いを南下する。…と、ビックリ!!
 墨俣城址とおぼしきあたりに、金の鯱鉾を戴いた四層の天守閣があるではないか!
 あまりのことに思わず爆笑しながら、まろびつつ、平成の墨俣城に駆け寄った。
 なんて楽しい。さすが、サービス精神旺盛な豊臣秀吉の精神を体現している。
 それにしても、いつの間にこんなことになっていたのだろう。秀吉が一代の出世のきっかけとなった墨俣城は、城とはいえ川の中洲に拵えたものだから、掘立小屋の砦のようなもので、平屋だ。
 まっこと、城めぐりはメルヘンですねぇ。
 域内の豊国神社のわきに「名誉城主 竹下登」と碑がある。ふぅむ、なるほどねぇ…。

 そしてまた、愉快なことに、昭和53年に刊行された私の手許の資料・別冊歴史読本によると、永禄九年九月廿四日、つまり、444年前のちょうど昨日、本来の墨俣城が築城されたのだ。(本稿この部分は2010年11月1日月曜日、つまり太陰太陽暦の平成廿二年長月廿五日の紀行によります。ちょっとくだくだしいですが…)
 何たる奇遇。
 なんだか妙に面白い心持ちになって、私は休館日で入れないその城の周囲をぐるりと回った。ちょうど、犀川が長良川に流れ込む洲股にあるのだった。整備された堰堤がものすごい勢いの水流を呑み込んでいる。パワーシャベルも掘削機もなかったあの時代に、こんなところに築城しちゃうなんて、大したもんだ。
 南面の神籤結び所に奉納された無数のひょうたんが、朱房の紐で括りつけられて、気持ちよさそうに、ゆらゆらゆらんと、風に揺れていた。
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三味線武士

2010年10月09日 15時00分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 昨日から旧暦では九月。寒露の候。
 本来なら、九月一日が衣更えで、袷着用となるので、再三感じ入っているようで自分でもどうかとも思うのだが、なんかやっぱり、太陰太陽暦は日本の気候に合っている。
 つい一昨日の10月7日、旧暦の八月晦日に、島田大祭「帯祭り」の前夜祭に行ったときは快晴で、床着(ゆかぎ:邦楽家が舞台で着る衣装。黒紋付なので、俗に、まっくろくろすけ、と呼んだりもする)は単衣に仕立ててあるから比較的涼しいのだが、それでも帯揚げまで汗みずくになる陽気だった。

 静岡県の島田は、わが家元・杵屋徳衛のおじいちゃん、三世杵屋勝吉の生まれ故郷である。
 東海道・島田宿は、みなさんご存知のように「越すに越されぬ大井川」、大井川の川越えの東岸、江戸方面から上方に上っていく旅行客のたまり場である。
 一応、軍事政権だった江戸幕府は、軍備・防衛上、大河に橋をかけることを許さなかったので、増水したときなぞ、川を渡ることができず、幾日も川止めになる。
 今でいえば、悪天候で飛行機が飛ばなくなりました…どことも知れぬ空港に留め置かれる。江戸の人は運命に逆らわない。川の流れのように宿場町に居続ける。川の流れは同じに見えて、でも同じ水じゃないんですけどね。
 だって、人間なんて、いくら文明や科学が進んでも、お天気ひとつ、変えられやしない。

 これはグランド・ホテル方式的状況で、それでよくまあ、昔の時代劇には、股旅ものに捕り物帖的趣き、ミステリーをからめた宿場町の人間模様を描いた人情話とか、面白い映画がたくさんあった。
 捕り物帖の謎ときは他愛ないものが多いので、記憶からすぐ抜け落ちてしまう。あれは本格推理ではなく、江戸情緒、風情を愉しむものだろう。川止めに至る状況、旅籠の軒先から水溜りに落ちる雨のしずくとか、探偵役の男前の主演俳優が顎に指を当てて推理に耽る絵面…を、断片的に想い出す。
 バンツマの『狐の呉れた赤ん坊』は、島田の対岸、金谷宿が舞台になっている。子役だった津川雅彦の表情が印象深い。

 東海道五十三次、江戸から箱根の関所を越えて、三島、沼津、ここから広々とした海岸沿いの道が続く。千本松原、田子の浦、白妙の富士を右手に仰ぎ、蒲原から由井正雪の生家といわれる紺屋を過ぎれば、興津白波。三保ノ松原、駿府のご城下を過ぎて、安倍川を渡ると(きまって皆ここで、あー、安倍川餅のできたところだ!と叫ぶ)鉄道では用宗海岸、そして焼津。♪向こう意気なら、焼津の半次~と唄わずにはいられない、素浪人月影兵庫、花山大吉ファンは、昭和の人。
 ……ちょっと志ん生の「黄金餅」めいて参りました。

 江戸時代は、駿府を越えると山道に入る。「蔦紅葉宇津野谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」というお芝居をご存じだろうか。
 検校の位を頂くために百両持って上方を目指す盲人が、無残にも鞠子の宿で殺されてしまう黙阿弥の芝居だ。平成五年ごろだったろうか、歌舞伎座にかかって、殺しの現場を観た目撃者が犯人をゆするという、現在の二時間ドラマ・トラベル・ミステリーの嚆矢のような筋立てだったが、私は、旧暦の九月に初演されたという季節感をも表すこのタイトルの「蔦紅葉」が、すごく気に入っていた。たぶん、絡み合った人間模様を暗示する、蔦紅葉という意味もあるのだろうけれども。

 その杣山道を抜けて、岡部、藤枝まで来ると、さあて、お次は、大井川の川越えが控えている、島田の宿。長編映画なら、そろそろ、インテルメッツオと字幕が出て、お中入りとなる頃合いだ。

 そんなわけで、島田は江戸時代、陸運業の一大要塞基地、今でいうとネットの巨大サーバーのようなものだから、その繁栄たるや、江戸に勝るとも劣らないといわれるほど、繁盛した。
 それで、幼少の三世勝吉・杉山松吉少年が三味線弾きとしての萌芽を芽生えさせる、江戸長唄文化の土壌が、島田には、あったのだろう。
 戦前まで、東京は神田同朋町に住まいしていた三世勝吉は、腕といい発想といい天才肌でファンも多く、飛行機で大陸の上海から稽古に通った弟子もいたそうだ。いま流通している碧型(みどりがた)と呼ばれている撥は、おじいちゃんが発案したものである。

 そのおじいちゃんが音楽監督、芸事指導をした、天下のアラカン大先生、嵐寛寿郎の『三味線武士(しゃみせんざむらい)』という映画がある。
 昭和13年に制作された、川口松太郎原作の芸道もので、いわゆる旗本の次・三男で長唄三味線の腕が立つ主人公が、歌舞伎の下座を勤めていたときに椿事が出来し、御家を出奔。上方に流れて芸事の腕を磨いていたところへ、いわくのあるかつての同僚の妹が、やはり箏の修業に来ていて、図らずも「秋の色種」を競演することになる。女の浅はかさを呪いたくなる、悲恋ものだ。
 大坂の天神祭のシーンでは、おじいちゃん作曲で、現在わが杵徳の家の曲である「菅公」が流れる。長唄の師匠役で、三世勝吉の長男・勝助が出ている。

 この映画が観たいため、私は、昭和の終わりごろ方々を探していたが、ある時、時代小説の評論をしていた知人が、チャンバリストクラブ、という会合を紹介してくれた。
 それはチャンバラ映画を愛してやまない方々が、当時は16ミリフィルムで観るしかなった古い日本映画の上映会をして、チャンバラ映画の魅力に浸る、という集まりだった。

 ……蛇の道は蛇ですなァ。
 なんと、その中のお一人が、『三味線武士』をビデオで所持しているというのだ。どこかの地方局でTV放映されたのを録画したということだった。ダビングしてくださり、このビデオはいまでも当方の家宝となっている。
 それから何年かのち、今はなき大井町の大井武蔵野館で、『三味線武士』が上映されると聞き、社中で映画鑑賞会を行ったことがある。大井武蔵野館は「名画座最後の砦」と銘打ち、楽しい番組立てで、私は入り浸っていたのだが、残念なことに20世紀のうちに幕を閉じた。

 さて、島田大祭は、3年に一度、寅、巳、申、亥の歳に、本来なら旧暦の九月十五日(これは本来の神田祭と同じですが)に行ったそうなのだが、新暦になって今年は今週末の10月9・10・11日に執り行われる。
 別名、島田長唄まつりともいい、長唄を主体とした音曲が祭り全体を彩る。
 その賑やかで盛大なこと、また優美で、祭り本来の真摯で静謐なありよう、神々しいものに対する精神性をも感じさせる、島田の街の雰囲気に感激して、私はちょっと涙ぐんだ。
 各街の屋台や、神輿、鹿島踊りなどが続く神輿渡御行列、帯祭りのいわれともなった、大奴が太刀に絢爛豪華な丸帯を巻いて練り歩く大名行列。
 今回、前夜祭でお世話になった方々の、各街の揃いの半纏を見ているだけでも飽きない。素晴らしい、粋(すい)を凝らした、艶やかな日本文化の結晶である。

 ご用とお急ぎのある方もない方も…島田の帯祭りを観ずして、江戸を語ることなかれ。

 この広い空の下、地域地域の歴史とは関係なく、なぜか、阿波踊りとよさこいが、日本列島の祭りの二大勢力となってしまっている昨今、その土地本来が培ってきた文化を慈しみ継承していく、島田の皆さんの、その心意気に、私は深く、心打たれる。

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江州・彦根城

2010年04月08日 12時00分32秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 一見赤ヘルの彦にゃんが出没する、最近の彦根城のことは知らない。
 私が城めぐりをしていたのは、昭和の終わりから平成のひとケタ時代のことである。歴女が武将コスプレをして城巡り、というのが昨今の流行りらしいが、そんなこと、あたしゃあ、ずっーっと何年も前からやってましたンです…ロケット団の負けず嫌いの人みたいになってますがね(あっつとぉ、訂正。コスプレはしてません)。
 そのころの古城の何がよかったかというと、つわものどもが夢のあと…というような、もはや、世間からは忘れ去られ、朽ち果てて、歳月にさらされた石垣の縁が、雑草や土に埋もれながらひっそりとたたずんでいる風情が、実にイイのである。
 人間のあらゆる業…天下を取りたい、人の上に立ちたい、豪勢な生活をしたい、権柄づくで他人をひざまずかせたい…etc.というような、願望渦巻く象徴の牙城的存在であった過去の成り立ちのことは、もはやすっかり忘れて、そんなこととは無関係に、夢見るように、ほのぼのとした雰囲気を漂わせ、自分の一部となった木々に訪れる小鳥のさえずりなんかを聞きながら、のんびり陽ざしを浴びて佇んでいる。三橋美智也でなくとも、一節、呻りたくなるものであろう、というものだ。
 平成の初年頃、初めて訪れた彦根城は、まだ大改修前で、しかし、さすがに国宝彦根城の天守は立派で美しく威容を放っていたが、本丸や三の丸の郭の縁は、いい具合に崩れていて、のんびりと花見客が、なぜだか沖縄民謡のようなものを踊っていた。
 お城だけでなく、彦根のご城下も、何とも言えない風情があって、ベンガラ格子の町屋とか、いい感じで時代がついていた。養花雨のそぼ降る市街を行けば、先代の鴈治郎そっくりのお坊さんが僧衣の裾をたくし上げて、下駄ばきで濠外の大道の水溜りを跨いでいたりして、関東者としては、惚れ惚れする町並みだった。
 お城の本丸のお庭に、水戸市からだったか、水戸藩士子孫の会だったかの寄贈で「友好の梅の木」というものが植えられていたのにはびっくりした。そんな昔のこと…とか思っていたけれど、あの折の遺恨、今でもそうなのか、と衝撃だったのである。
 安政の大獄で、十三代将軍継嗣争いの相手方・慶喜派を一掃した井伊直弼は、しかし、安政七年の雛の日に、桜田門で頸刎ねられてしまう。
 それから幾日も経たない三月十八日に万延に改元されているけれど、その万延もたった一年足らずで文久に変わる。CMでお馴染みの老舗のカステラ屋さんだったか、佃煮屋さんだったかがこのころ創業したわけで、西暦にすると1860年前後のことである。
 暦を見ると、万延元年は、閏月が三月に有った。ということは、井伊直弼が卒した三月三日は、今の暦と同じぐらいの感覚の三月三日で、ずいぶん寒かったのだろう。雪が降ってしまったのもむべなるかな…。
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忘れじの桜①奈良高畑町

2010年03月28日 17時27分01秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 ある年…たぶん平成5年ごろ、一門の旅行会で、京都御所から吉野山へ桜をめぐる旅に出かけた。
 時は春。予測の難しい満開の時期に日程はドンピシャリとはまって、吉野の桜に埋もれて、身も心も全身、さくら色に染まった旅だった。私は仕事の都合があって、3日目の朝に皆と別れ東京へ帰ることになった。
 吉野から車4台ほどに分乗していた一行にいとまして、私は街道の、奈良にほど近い駅のそばで降ろしてもらった。新幹線の時間まで午前中目いっぱい、春の名残に奈良を散策しようと思ったのだ。行きたかった松柏美術館は月曜日であいにくと休みだった。
 志賀直哉の旧宅のある高畑町や、まだ今のように観光地として整備されていなかった奈良町の辺りを彷徨った。そのころ観た戦中の映画の、ロケーションの場所を探してもいた。学校に至る坂道が階段になっている寺町を、教師役だった佐野周二が歩いていた。
 新薬師寺の裏のほうの住宅地を通りかかったところだった。細い路地の、民家の一区割だけが空き地になっていて、破れた築地塀の向こうに、一本だけ桜が咲いていた。
 以前は家が建っていたであろうに、その邸の跡形もなく苔むした庭に、枝垂れ桜の老木だけがあって、見事な白い花枝を垂らしていた。太い幹からして、もうずいぶん長いこと立っているのだろう、小さい庭は桜自身の樹影で、うっそうとしていた。
 辺りはしんと静かで、小鳥のさえずりだけが聞こえた。
 もう何百年もそこに棲んでいるかのように、ひっそりとたたずむ桜樹に、私はしばし時間を忘れて見入っていた。
 それから、もう一度あの桜の木に逢いたい、と思うのだが、奈良に行っても訪れる機会のないまま、もうずいぶん時が経ってしまった。
 あの樹はまだ、あの場所にあるのだろうか。
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