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1・17 1995

2019年01月17日 | 日記

MBSの「ちちんぷいぷい」で、吉本新喜劇のマキちゃん が「沢田研二さんのコンサートに行ってきました。70歳とは思えなかった、凄かった!」と言っていました。

吉本の芸人さんは沢山観にきてくれたようで、矢野兵動の 矢野ぱいせんも 行きました!とTwitterで大阪城ホール前の画像をアップしていました。落語家にも見に来て欲しいわ!

 

今日は1995年1月17日から24年目です。朝、地域の慰霊碑にお参りをしてきました。火曜日に放送された「BRIDGE」は、住んでいた家から近い潰れた六甲道駅を、わずかの日数で奇跡的に復活させた人々の物語でした。かつての六甲道駅近辺の面影、そして地震で破壊された光景には胸が潰れる想いがしました。

ジュリーの大阪城ホールのMCのネタになっていた、桂文枝さんもドラマに出ていましたジュリーが昨日のMCで、天満繁盛亭の寄席で、二階席を希望したらダメで「沢田研二ですが・・三枝さんとは、ヤングオーオーの時代から・・・」と言うてやろうかと思ったが・・言わなかった。

ヤングoh!oh!もちろん見てました!朝ドラ「まんぷく」のモデル、日清食品の提供。番組の後は必ずカップヌードルを食べたくなるの(^-^) 番組内でカップヌードルの生CMをするんだけど、出始めの頃は、どんなものかよくわからなかったわ。

わたくし、桂文枝さんが桂三枝さん時代の1978年にクイズ番組の「三枝の国盗ゲーム」でご一緒しました。その時は三枝さん、とても優しかったです。

私が撮影を見物していた駅前の映像はこの下↡。あれ誰?とわからなかった俳優さんの名前、やっとわかりましたよ~ 

皆であれは誰?知らん・・スマホで検索してもわからない、と言っていた俳優さんは、葉山 奨之(はやま しょうの)さん、最近のドラマにもいっぱい出ているそうです。ゴメン知らんかったわ~ 朝ドラ「まれ」にも出てたんだって。覚えてない・・

我が家は未明の大きな揺れで玄関先は崩れ、家は傾き、屋根瓦は落ち甚大な被害を受けましたが、倒れた家具を押しのけて家の外に出ました。夜が明けて明るくなって目の前は瓦礫の山、変わり果てた神戸の惨状には声も有りませんでした。

とりあえず、大切なものが無事か確認するために再び家に入りました。私が一番に探したもの、それは・・2月の大阪フェスのコンサートチケット。あった~!無事やった。ホッと一安心!我ながら、一番に探すものがそれか・・と呆れますが、事実です。

明るくなって、近所の人たちから六甲道駅が潰れたと聴きました。駅が潰れて どうやってコンサートに行くのか。その時は先の事は全く何もわかりませんでした。破壊されつくした神戸はこれから どうなるのだろう。明日も来年もその先も いつもと同じ日々が続く・・そう思っていた私の人生は、これから変わるに違いない。漠然とそう認識だけはできました。

ドラマは、その当時の光景をマザマザと写し出していました。駅で亡くなった人はいなかったとか、それだけは良かったです。

記憶はこの先もいつまでも消えない事でしょう。 

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7 コメント

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24年前の事実…1•17 (ペコリん)
2019-01-18 00:52:29
Saoさん日付は少し過ぎましたが、24年前の未明…そこから昨日と違う日々が、ドラマの中でも
ここでポーンと手をたたいたら元に戻る👏あ~
戻ってない。。という場面がありましたが本当にわかります!皆が、こんな事、夢に違いないと…saoさんも現実に体験されたのですね?!💦
無事の確認がチケット!泣かせますよ、泣かせます!今は色とりどりのお花を慈しむまでになられ
日常が。私はよくコンサートのチケット並びをしてたのですが、ダンボールと寝袋でいつもの
常連さんたちと話したのが[私達、地震や災害が、あっても表での、寝泊まり慣れてるから大丈夫よね。]なんて言ってたのですが、あの現実を見たらとんでもないバカな事を言ってたものだと、同じ寝泊まりでも私達はコンサートチケットと言う夢を手にする為ので、被災者さん達は明日からの夢も断たれ不安と身体の傷を負って…なんて、くだらない事、言ってたと恥ずかしくなりました。そんな状態の時に[頑張って!]と
言う言葉がかえって辛いとも心も折れてる時にその言葉が重たかったとテレビで答えましたのを思い出します。瓦礫から出てきたのは
オルゴールで曲は{イッツ-スモールワールド}でした。その音が切なくて泣けましたね、24年前の事。。。余談ですが、ドラマの中、saoさんらしきの人、写り込んでないかしらなんて観ちゃいましたよ。
訂正🙏 (ペコリん)
2019-01-18 01:07:01
又もや、テレビで答えたのをーはテレビで被災者さんが、答えてたのをです。ごめんなさい。。[頑張って!頑張るのよ!]の言葉が逆に苦しめることもあるのですね。
24年前の事実…1•17 (sao)
2019-01-18 18:12:21
ペコりんさん、今晩は✨ コメントどうも有難うございます♪

>『ダンボールと寝袋でいつもの常連さんたちと話したのが
[私達、地震や災害が、あっても表での、寝泊まり慣れてるから
大丈夫よね。]なんて言ってたのですが、
あの現実を見たらとんでもない・・・』
ペコりんさん、かくいう私も被災者になる前までは
自分が地震や災害に遭うなんて、まったく想像した
こともありません。
誰でも殆どの人が似たようなものだと思います。
ダンボールと寝袋でいつでも寝られるのは、災害時には
間違いなく役に立つと思います(^^ゞ
他人事と思わずに備えをしておく事が大事です。

[頑張って!頑張るのよ!]
私は素直に、励ましの言葉だと受け止められるのですが
同じ被災者でも、立場や思いが違えば「頑張って」は辛い言葉に
聴こえてしまうようです。言葉の使い方は難しいですね。
1・17 1995 (KAZU)
2019-01-18 18:50:58
神戸の街が大好きで、よく訪れていました。あの地震の時、名古屋でもかなり揺れました。TVで見ると震源地がよく分からない。ただ関西方面だとは分かって出勤。僕より後に来た先輩が大変なことになってると教えられ、ニュースで悲惨な光景を見つめました。丁度その頃から、仕事が責任が重くなり、なかなか行けなくなりました。半年後に訪ねた時は、まだまだ復興半ばでした。大好きなステーキ屋さんのビルが倒れてはいなかったけれど、隣りのビルにもたれかかっていたのが、今でも瞼に焼き付いてます。道路がうねってました。もう24年。96で亡くなった父が、あの神戸のステーキ、うまかった。ありがとな。最後まで喜んでいました。また、ゆっくり訪ねたいものです。
saoさん お久しぶりです(^_^) (Rin)
2019-01-19 11:14:49
去年23年目の1月17日は、神戸国際会館でジュリーと共に23秒間黙祷しましたね。
当時夫の両親が三宮に住んでおりました。
幸い二人とも無事でしたが半壊で住めなくなり
灘区に住む夫の兄宅に身を寄せました。
そこへ数日後夫は25キロ、私は20キロ分の食料をつめたリュックを背負って向かいました。
まだ代替バスも走っておらず、航路は満員で乗れず、JRを乗りついで新神戸まで行きました。
駅前で売っていたホカホカのパンを持って行ったら、両親も兄一家も兄嫁の親戚たちも満面の笑みで喜んでくれました。
両親も夫も亡くなりましたが、あの時の事は今も鮮明に覚えています。
さて、今日から武道館3days!ジュリ友と一緒に向かっています。ジュリーのコンサートに行けるのは本当に幸せなことですね♫
1・17 1995 (sao)
2019-01-19 18:50:11
>KAZUさん、コメントどうも有難うございます♪
お返事が大変遅くなってしまい、失礼してしまいました。m(__)m
KAZUさんは、名古屋の方でしたか。
あれほどの被害があった神戸でしたが、復興のスピードは速かったです。
日本人の底力を見る想いでした。ですが、街の様子がすっかり変わりました。
震災は住民の人生を根底から変えてしまいましたが、現在の神戸で
震災の傷跡を探すことは難しいです。変わってしまったけれど、変わらないのは
神戸市民の気持ちです。お時間があれば、また神戸にお越しください。
ジュリーは毎年、神戸国際会館にきてくれて、毎回立見の出る盛況です(^-^)
saoさん お久しぶりです(^_^) (sao)
2019-01-19 19:04:32
>Rinさん、お久しぶりです。コメントどうも有難うございます♪
>『ご両親が、灘区に住む夫の兄宅に身を寄せました。数日後 夫は25キロ
私は20キロ分の食料をつめたリュックを背負って向かいました。』
なんという大変な目をされて、重い荷物を背負って灘まで向かわれたのでしょう・・
本当に大変でしたね。我が家にも、親戚が西宮から徒歩で、灘区の家まで
来てくれました、あの時に受けた親戚や友人の心遣いの暖かさを忘れません。
温かい食事は気持も温かくしてくれました。
今日から、武道館3daysですか!もう終わりましたね(^-^)楽しまれたに
違いないと思います。
私は明日からですが、ジュリーに大声援を贈りたいと思います

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