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『なぜ日本は、ヒロシマ・ナガサキの大惨事にもかかわらず、原子力を受け容れたのか 』IPPNWドイツ支部。

2015-08-25 12:02:52 | 福島第一原発と放射能

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IPPNW ドイツ支部の文章、『陰と陽 なぜ日本は、ヒロシマ・ナガサキの大惨事にもかかわらず、原子力を受け容れたのか』を紹介しておきます。

僕はこの文章に同意できるところと、同意できないところがあります。

まず根幹でおかしいのは、広島が福島に特別な感情が、本当にある地域なのかどうかは、実際は相当に疑わしいです。

そうした人々も、一部には居るのは知っています。しかし、一部です。

避難者の娘に対して、「広島が大丈夫だったから、福島も大丈夫に決まっている、それなのに東京から避難してくるのは、キチガイ沙汰だ、東京へ帰れ。」という言葉が親から投げかけられた地域も、広島だったということがあります。これは、複数の避難者から似たような文脈で聞こえてきた話です。

広島が、原発事故避難者に対して、全国で抜きん出て、支援したような現実もありません。

この文章は、原爆投下という事態によって、放射能に関して適切な意識が広島のような被爆地で生じていて、今回の原発事故にも、そういう意識がきちんと向き合っているという前提で書かれています。

それは、本当なのか?

実際に、原爆に反対している人々が、今回、原発事故による被曝回避に関して有効な提案を為しているケースは殆どありません。

実は、僕が、2012年に伺っていた報告の中に、原爆による被爆者たちの団体でおきていた、こういう状態に関しての報告もあります。

「世界であれだけ声高に『ふたたびヒバクシャをつくるな』と訴えて来た彼らですが、事故後の動きは非常に鈍いものでした。最近やっと脱原発の意志を表明できるようになった状態ですが、原発容認の会員がおり、意見集約に時間を要したとのことでした。」

被爆者たちが原発容認をしていた実態すら、現実にはかなりあるということです。

こうした構図なども考えると、ドイツのIPPNWの認識には、限界があると思います。

外国人的観点では、ヒロシマ・ナガサキとフクシマを連携するように書く感覚は、よくわかります。

しかし、こちらから考えると、その話の位相に、相当なズレがあると言うことです。

僕は一読して、そういう見解を有する文章ではあります。

しかし、原発推進を日本で行っていた構造というのが、戦後どのようなものであったのかという点で、概観的な状況を認識するためには、一読したほうが良い文章でもあります。

そして、外国の団体が、他国の放射能問題で関わる際に、ある種の認識限界があることも、この文章は分からせてくれます。団体としての枠組みでしか最終的には語れないことも、この文章は再認識させてくれるものです。

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IPPNW ドイツ支部の論評 - 2015 年 8 月 11 日付   ( 訳 グローガー理恵)

http://www.ippnw.de/atomwafen/humanitaerefolgen/artikel/de/yin-und-yang-weshalb-japan-sich.html

『陰と陽 なぜ日本は、ヒロシマ・ナガサキの大惨事にもかかわらず、原子力を受け容れたのか 』

ヒロシマ・ナガサキから 70 年 

 

1945 年 8 月 6 日、原子爆弾 ''リトルボーイ'' は広島で炸裂し、市は灼熱の地獄へと化した。その 3 日後 の 1945 年 8 月 9 日には長崎が、同様の過酷な運命に襲われたのだった。

広島、長崎と、原子爆 弾が炸裂したその日、数万人の人々が亡くなり、その年の末までに命を奪われた人々の数は、20 万 人近くに及んだ。あとの何十万人という犠牲者には、彼らの生涯にとって消えることのない傷痕が残 った。

それは、負傷や火傷を負い、放射線被曝の影響を受け、自分の家族や故郷を喪失し、精神的 外傷を負い、被爆者としての烙印を押された傷痕であった。

この 8 月には、広島と長崎が原爆爆撃されてから 70 年目を記することになるが、この広島と長崎で 起こった大惨事ほど、強く日本人の集団的記憶の中に焼き付いた史実はない。

それ以後、日本市民の 大多数は、広島・長崎原爆投下の生存者である被爆者たちと共に、全ての核兵器の廃絶を唱え、世界 中で 2 千回以上行われた核兵器実験の被害者たちとも連帯している。

さらに、今年の 11 月には広島 で、初の ''世界核被害者フォーラム'' が開催され、そこにおいて、放射能汚染されたウラン採掘地帯 に住む住民や民間および軍事核事故の犠牲者など、すべての被害者が話す機会を得られることになっ ている。

しかし、それ以上にもっと驚くべき事実がある。

それは、今日において、日本の原子力産業が世界で 最大かつ最強な原子力産業のひとつとして数えられるということである。

いわゆる ''原子力ムラ'' と も呼ばれている日本の原子力ロビーは、日本国内で何十年もの間ずっと政治や社会に決定的な影響を 及ぼしてきており、与党とも密接に結託している。

彼らは実際、日本で最も影響力の強い産業ロビー 団体なのである。ここで、ある疑問が湧く それは、「いかにして、この軍事核産業が産み出した原 : 1 爆のためにあれほど酷く苦しんだ国が、民間原子力産業を自国の産業の柱石としていく事になったの か 」という疑問である。

我々は、IPPNW ドイツ支部と交流/繋がりのある日本の人々に、この疑問 を提示してみた。

広島市大学・広島平和研究所で働くロバート・ジェイコブス (Robert Jacobs) 博士/准教授は、「原 爆投下後の何年かの間、日本人は全ての原子核テクノロジーを猛烈に拒絶した」と説明する。

戦後日本と結びついた米国は、「日本人は原子力に対して非理性的な恐怖感を懐いている」とすら報告して いる。

1945 年の 8 月、人類は核の破壊的な力を知ることになったのであるから、 おそらくは、世界 中のほとんどの人々が、原子力というものに対して、日本人と同様な反応を示したのではないだろう か。

しかし米国は、このような世界的な拒絶反応を阻止したかった。

冷戦が始まった頃、アメリカの 核兵器保有は、軍事上ドクトリンの最も重要な軸足となり、核兵器基地が太平洋にも、且つ一番うま くいった場合には、ソ連への飛行距離をできる限り短くするために、日本にも出来ることになってい た。

つまるところ、日本人の原子力への ”非理性的な恐怖'' が原子力の” ” 受容 に変わることが肝要と なったのである。 これを踏まえて、1953 年、ドワイト・アイゼンハワー米国大統領 は'’平和のための原子力 (Atoms for Peace) '' 計画を開始した。

それは、「兵器級プルトニウムの生産過程で多量のエネルギーが発 生する ー その エネルギーを電力生産のためにも利用することができる」という提案であった。

すな わち、この '' 平和のための 原子力 ’’ を世界中に広めることで、原子核テクノロジーの悪いイメージを 糊塗して、広い社会的受容を得るための道を拓くという意図であった。

このアイディアは日本においても素早く支持者を見つけた。特に、勢力や威力、そして大儲けを嗅 ぎ出したや政治家や企業家の中に...。

日本では従来、政治と企業が非常に密接に絡み合っている。

原子力の場合だと、企業、政治家、原子力規制庁との間の密接度が、容認できるような限度を超えて しまっている。

しかしながら、原子力支持者にとって、まず、やらなければならなかったことは、日本社会に存在す る原子力への根強い不安を打ち破ることであった。そして、日本人がどのように語義を捉え把握する のか、原子力の主唱者は 心得ていたのである。彼らはまず第一に、用語表現を変更緩和させることに した いわゆる 「peaceful use (平和利用 ) of nuclear energy(核エネルギー )」 という言葉は 「核エネルギーの平和利用」ではなく、「原子力の平和利用」と訳された。日本語で 「nuclear(核) weapons (兵器)」 は 「核兵器」と呼ばれるため、「原子力」は「核兵器」とは異なった事柄を表す言葉であるとして、多くの日本人が心の中で、民間と軍事核産業は別々のものである と区別して考えるようにさせた。

単に核を原子力と呼ぶことで、その事が可能になった。

しかし事実 は、米国の核産業が示したように、民間核産業も軍事核産業も密接にかみ合っていたのである。

 次のシンボリックなステップは、再建された広島市の都心に原発第一号機を建てることであった。

 広島市を破壊し、あれだけの多くの人々の命を奪い去った、あの"悪" の原子に続いて、今度は、有益 で、市を復興させて、国やその経済に新しい生を与えてくれるであろうという "善" の原子がやって 来ることになる、との明白な印として...。

このような陰陽的思想は、多くの日本人の共感を得たかも しれないし、それ自体で何人かの被爆者にとっては、「何のためにこのような事が起きなければなら なかったのか 」という彼らの問いに ? 対する答えとなったかもしれない。...しかし、被爆者と広島市 民の圧倒的多数は、原子核テクノロジーを拒絶し続けたのだった。

そして、広島に原発を設置する計 画は、地元住民による猛烈な反対のために失敗に終わった。

朝日新聞の新しい調査によると、全ての 被爆者の内その三分の二 が、これまで、原子力を拒否している、という。

しかし米国は、日本国内に民生原子力を根づかせようと、原子力平和利用博覧会と名付けられた大規模な宣伝活動に資本提供することにした。

〝原子力平和利用博覧会〞は、1955 年から 1957 年 にかけて日本の 10 都市で開催された。

この〝博覧会〞は、広島の平和記念資料館にもやって来た。

そのために、資料館に常時展示されていた、原爆の惨状や放射線の恐怖を伝える資料、被爆者の遺品 などの展示品が館外に移され、博覧会の後も、原子力平和利用をテーマにした展示物が、何年もの間、 資料館内の展示会場を占めることになった。

そして、これらの出来事は、事態を傍観するしかなかっ た多くの被爆者の怒りをかったのだった。

この原子力ロビーによる集中的なプロパガンダは、政府と繋がりのあるテレビ局や新聞の高揚的報道 によって盛り立てられた。

「原子力の平和利用は我々の経済を成長させる」とのスローガンは、間も なく、日本社会に浸透遍在していき、テクノロジーの進歩に好意的な日本市民の心に刷り込まれていった。

その頃から日本人の間で、"核" とは、ヒロシマとナガサキの恐るべき大量虐殺と結びついたも のであり、"原子力" とは、経済成長と人々の幸福に結びついたものであるとの概念が生まれるようになった。

1956 年以後、日本原子力研究所が東京から東北の地域にある小さな東海村に発足した。それに続いて出来たのが、核燃料生産工場、使用済燃料再処理施設、そして日本で最初の原子力発電所であった。

東海村は、日本の原子力産業の核心となったとともに、フクシマ原発事故以前に 20 以上の所在地 に位置した 58 基の原子炉を有していた、腐敗した、規制不十分な、事故慣れした産業のシンボルともなった。

すでにフクシマ超大規模原子力事故が起こったずっと以前から、原子力施設において漏洩 や爆発、火災が発生し、その度ごとに、一部で大量の放射能放出を伴っていた事があったという事実 が、日本の原子力産業の特色を現わしている。

 「今日、多くの日本人は、なぜ、地震、津波、火山噴火で度々悩まされている国が、なんら疑問を発 することもなく単純に、原子力を受け容れることができたのだろうか、と思案している。さらに彼ら は、経済界・政界の有力者が当時から間違っていると分かっていながら、これらの危険性を無視した 背後には何があったのだろうか、と問うている」と、広島平和研究所のジェイコブス博士は述べる。

さらに、見て見ないふりをする習慣や政治家、企業、原子力規制庁の間の癒着といった背景が原因と して付け加わり、東海村やフクシマの原子力災害の発生に寄与していった。

そして、国会事故調査委員会は 2012 年 6 月、「フクシマ原子力災害の原因は、これまでの規制当局 の原子力防災対策への怠慢と、当時の官邸、規制当局の危機管理意識の低さ、そして責任を持つべき 官邸及び規制当局の危機管理体制が機能しなかったためであり、自然災害というよりも人的ミスに帰する」との結論に至った。

今回、再び、日本市民に高レベルの放射能を浴びさせたのは外敵ではなく、 自分の国の規制当局と企業の過失/怠慢によるものであったという認識は正に、多くの被曝者に諦め と茫然自失をもたらした。

ジェイコブ氏は書く 「原爆被爆者たちは、核時代の終わり、核兵器の廃絶、そして、自分たちの身にふりかかった、あの苦しみを、もう誰一人として味わう必要のない世界を渇望している」と。

だが、その逆に彼らは、フクシマ原子力災害の後、あるイメージと向かい合わされている それは、自分たちの故郷が放射能汚染されてしまったために避難施設で生活し – 線量計をつけて学校へ通い– 健康診断に一生涯、臨まなければならず– そして原爆被爆者と同様に、がん発病率の増加や子孫への遺伝的影響、社会的烙印を恐れている – 女性、子ども、老人たちのイメージなのである。

これらのイメージは、原爆の犠牲者たちが実際に目指している未来とは全く正反対のものを描き出し ている。臨床心理学者である福島県・いわき明星大学の窪田文子 (のりこ)教授は彼女の論評をこう結 んでいる 「ヒロシマは、70 年経った今も放射線被曝の影響と闘っている。だからこそ広島の人々 は、自分たちと同様に、今、放射線被曝と取り組んでいる福島の人々に対して特別な心情を懐いている。」

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 18:15開場 18:45~20:45

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申込み&詳細⇒http://kokucheese.com/event/index/325194/

現地からの報告:木幡ますみ氏(福島県民 県内避難者) 

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9:15開場 9:40~11:40

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申込み&詳細⇒http://kokucheese.com/event/index/325604/

現地からの報告 木幡ますみ氏(福島県民 県内避難者) 

トークゲスト 薬剤師 井上玲氏(都内公立病院で抗がん剤治療関連業務も担当、現在は関西に避難移住) 

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