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2014/10/10 攻防...  ここクリック → 写真大

2014-10-10 17:54:17 | Weblog
2014/10/10

画像(from NHK)は、


戦場に翻る錦の御旗

慶応四年(1868年)1月5日午後2時頃、

1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで、伏見方面の戦場に錦の御旗が掲げられた。


京都へ向かう幕府軍の隊列に、

薩摩が砲撃を加えた事によって始まった鳥羽伏見の戦い...


1月4日には、征討大将軍に任ぜられた仁和寺宮嘉彰親王が、

錦の御旗(みはた)を掲げて薩摩藩兵に先導され新政府軍の本営・東寺に入る。


錦の御旗は、後鳥羽上皇が北条義時を倒そうとした承久の乱や、

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとした時に掲げられたという記録をもとに、

天皇の配下の軍である事を強調するために、

岩倉具視が友人の国学者・玉松操にデザインを依頼して、密かに用意していたもの。



この4日には、早朝から反撃を試みる幕府軍。

しかし、幕府軍は諸藩の藩兵を寄せ集めただけの軍で、

作戦らしい作戦も立てられておらず、

統率のとれた集団は、

かの見廻組と新撰組くらい...。



しかも、その見廻組と新撰組は刀槍の集団で、

最新銃器の薩長からは狙い撃ちされるのは必至。


やがて、薩長軍が優勢のまま迎えた慶応四年(1868年)1月5日午後2時頃、

伏見の戦場に、ついに錦の御旗が掲げられた。


相手方の状況を、それほど把握していなかった幕府の諸兵たちは、

自分が、天皇に弓を向ける賊軍=極悪人になってしまったと

その御旗を見て愕然とする。


逆に、当然の事ながら、薩長軍の士気はあがる。


さらに、それまで、薩長とともに戦場に出ていたものの、

様子見ぃで戦闘に参加していなかった土佐藩兵は、この御旗を見るなり薩長軍に加勢...


やがて鳥取藩兵も加わって、薩長は大いに力を増し、劣勢の幕府軍はしかたなく淀城への撤退を開始する。


淀城は、大坂を出発した1月2日の夜に、幕府軍の本営として一夜を過ごした場所。

その場所で態勢を立て直し、再び新政府軍と相まみえるつもりだった。



ところが、

幕府軍の兵たちが戻っても、淀城の城門はピッタリと閉ざされたまま...

錦の御旗の威光に、淀藩も新政府軍に寝返ったのdes。



幕府の兵たちは激怒して、城門を力ずくで壊そうとし、

城門を「開けろ!」「開けない!」1時間ほどの小競り合いの末、

諦めた幕府軍は、さらに南の橋本にある久修園院へ。


ここ最後の抵抗拠点と定め、破られたなら、新政府軍を そのまま大坂への侵入を許す事になってしまうと眠れぬ夜を迎える。



翌・1月6日の昼近く、幕府軍は予想もしなかった場所からの攻撃を受ける事になる。

山崎に布陣していた津藩が、対岸の高浜砲台から、いきなりの砲撃。


もちろん、津藩は、それまでは幕府側...前日の夜に勅使(天皇の使い)の四条隆平(たかとし)が、津藩の代表に会い、新政府軍へ寝返った。


敵は、北から来るものと思っていた幕府の兵は、この対岸からの攻撃に浮き足立ち、京街道沿いの寺や民家に火を放ちながら逃走。



一方、この時、大坂城にいた将軍・徳川慶喜

度重なる敗北、諸藩の裏切り、そして、錦の御旗...

6日の夜わずかの側近とともに、大坂城を抜け出し、江戸へ...to 前回に 繋がりmas..

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