Nacht Worter

Nacht Musik(=夜の音)が、日々遺していく“夜の言葉”です。

Nacht Worter 124

2013年03月01日 | 語録

 

  世の中のことはなんでも我慢できるが、幸福な日の連続だけは我慢できない。

                                        / ゲーテ 「格言と反省」


 この言葉を読んで、私の中には欲、形、幸福、本能というような言葉が浮かんだ。ゲーテほどの人物の言葉を前にして、この私が何を書くのかと、ゲーテに限らず毎度毎度思いながら書いています。


 ある程度の歳になれば、良いことも、また悪いことも長くは続かないということを知る。稀に続くこともあるから、発言は配慮するべきだということも合わせて知る。

 ゲーテによれば、「幸福な日の連続だけは我慢できない」ということだが、良い日も悪い日もそう続きはしないという感覚が正常であれば、幸福とされる日の連続は異常であり、且つ、そのような環境は人を堕落させる要因にも成るだろう。そうなったからには、我慢ならないのも無理はない。

 ゲーテは「世の中のことは何でも我慢できる」とも言っている。ご褒美があるに違いない、という私の邪推は的を得ているだろうか。我慢や忍耐は、成功の意味に用いられることが多い。それだけでも十分そうなものだけど、目的無しには語りづらい概念となっている。

 元々、私は精神的な活動を公にしようという意思が薄い。それは私が我慢や忍耐をしていないからかも知れない。好きなことを好きなだけやっているのか、やりたくないことをやらないだけなのか、それは分からない。けれど、形にしたがる人々を見ると、皆一様に我慢や忍耐という努力をしている。そんな人々が自らの生きる意義や帰結先を必要とするのは、我慢や忍耐という言葉を意識した以上当然であり、否定しようものなら、逆説仕様で散々攻められるに違いない。

 求めないことによる幸福は逃げ腰の幸福であり、その意義は偏に苦しまないことにある。幸か不幸か、人間には使命感にも似た追求心が植わっているらしい。たとえ要らないものだとしても、求めようとする本能がゆっくり眠る暇を与えない。

 求めることによる幸福も危険を孕んでいる。本音と言葉がかけ離れていく人がいる。衝動や才能が穢されていく。

 幸福という言葉はとても難しい。ゲーテは、幸福な日が連続すること以外は何でも我慢できると書いた。帰結先を求めている間は、たとえ苦難の連続であっても、耐えていけるのだろう。日々の成長と希望の故に。しかし、帰結先に辿り着いてしまえば、それ以上の希望はないという絶望を知ることになる。私達、今の人間は真の幸福を知ることはない。知ったとしても、それを幸福だと思うことが出来ない。何故なら、私達は今この瞬間でさえ、幸福を探しているのだから。


Nacht Worter 123

2013年02月17日 | 語録

人間の発明の才によって、自動車の生産に必要な労働を減少させる方法が考案されてきたが、
シューベルトの四重奏曲を45分間演奏するのに必要な人間の労働を、合計3時間の延べ労働時間以下にまで減少させることに成功したものは誰もいない。


  /W・J・ボウモル、W・G・ボーエン


四重奏曲を演奏するのは当たり前だけど4人。
「4人×45分=180分」つまり合計3時間という計算なわけだ。

いくら科学が進んでも効率が極まってもこれを減少させることに成功したものは誰もいないと言っているのだけど、
「誰もいない」というより減少させることは「不可能」だ。

さらに演奏本番に臨めるようになるまで練習に費やした時間を考えると、3時間どころの騒ぎではなくなる。

そもそも、
効率と経済が人間の暮らしを言い尽くしてくれるのであれば、音楽に限らず“芸術”というジャンルに属するすべてのものは不要かつ無用だろう。

思えば人間とは不思議な生き物だ。

経済がしっかりしていないと生きていけない。
でもそれだけでは生きていけないのもまた事実。
生きられるほうが楽だったのではないだろうか。
科学と効率を極めて経済がキープされてさえいればOK、
このほうが、答えが分かりやすくて苦労は少ない気がする。

なぜ神はパンだけで生きられるように人間をつくらなかったのか。

パンだけでは生きられないことに、どんな意味があるのだろう…

Nacht Musik


Nacht Worter 122

2013年02月12日 | 語録


 巧詐は拙誠に如かず

         / 韓非『韓非子』


 丁度、靴の中の小石となってくれそうな言葉と出逢った。ただ己だけが、我が身故に何より許せないことがある。自分を律することは、つくづく難しい。

 我が身だというのに、何をさせるにも骨が折れる。自ら拵えた障壁を自ら打ち破って悦ぶ欺瞞は、一体何を満足させるものなのだろう。

 闘うことでしか生きられないとでも言うのか。そんな時代はもう直ぐ終わる。越えねばならぬ山を見て、空は繋がっているのだと心が教える。己を騙す言葉から、人は巧みになっていくのだろうか。

 本音というのは複雑です。言ってみたら、どれもこれも本音なのです。私達は実のところ、譲れない思いなど抱いていない。だからこそ、時折聞こえる素直な叫びに足を止める。

 

 → 韓非子を読む


Nacht Worter 121

2013年02月03日 | 語録

一人の相手に二人でかかっていってはならない。
卑怯だからだ。

  /ベルクールの男たち


改めてこの「卑怯」という言葉に、
少し重みを復活させたほうがいいように思う。

時代劇などではよく耳にするし、
うちの父親などもアルコールで少し気持ちが良くなって、子どもに人生訓をぶとうとするときに好んで選びがちだった。

「いいか、卑怯な真似だけはするなよ」

一人に二人でかかっていくのは卑怯だと思うこと。
そしてその卑怯を恥だと感じること。

これがごく当たり前に機能していれば例えば苛めはなくなる。

けれど「一人に二人でかかっていかない」ということを本当に突き詰めようとしたら、事はそれほど簡単には済まされない。

なぜなら、
苛めを糾弾しようとマスコミなどが取り上げることもまた、「一人に二人でかかっていかない」ことに抵触する「卑怯」な行為になってしまうからだ。

本気で徹底しようとしたら、いわゆる民主主義という制度が立ち行かなくなるくらいの危険な思想につながる可能性もあるのかもしれないけど、
それでも、
少なくとも対個人のレベルでは、
たとえそれが自分にとってどんなに難しい相手であっても、
どんなに厳しい状況下でも、
人とコミュニケートしようとするとき、誰かそこに味方が欲しいと思ってしまうことは、卑怯で恥ずかしいことだという感覚を失いたくない。


アルジェの労働者街ベルクールの男たちから知ったこのモラルを元に、アルベール・カミュはあの『異邦人』を書いたのだそうだ。


 

Nacht Musik


Nacht Worter 120

2013年01月28日 | 語録

ものを考えるためには訓練が要る
その訓練は身体的な修練だと思った方がいい

  /三浦雅士


この文章の前に三浦雅士は、
「情報を収集することと、ものを考えるということは違う」
と言っている。
分かりきったことだけれど、でも、
この「罠」に嵌らないようにするためには、
結構な注意力が必要とされる気がする。

誰かが考えたことを前に、
「ああその通りだな」「自分が考えるまでもないな」
そこで思考をストップさせるとき、
誰かが考えたことは単なる情報にすぎない。

「自分が考えるまでもないな」
ていうのはきっと危険な言葉なのだ。
そして、脳味噌だけでものを考えようとする際、
脳味噌はすぐにその危険を犯しがちな器官なのかもしれない。

物事に相対するとき脳味噌だけに任せないということ。
ものを考えるには訓練が要る。
それも身体的な修練が。

「少し体を使ったほうがいい」
ちょうど感じかけていたことに、
自分的にとてもタイムリーな言葉だった。

ということで最近ときどきプールに通うようになって、
気持ちはとてもいいのだけど、
でもここで言ってることとは何か違うような気もする。

じゃあ、
もういっこ最近マイブームの武士道系の身体修練、
ううん…て言っても、一体何を…