世の中のことはなんでも我慢できるが、幸福な日の連続だけは我慢できない。
/ ゲーテ 「格言と反省」
この言葉を読んで、私の中には欲、形、幸福、本能というような言葉が浮かんだ。ゲーテほどの人物の言葉を前にして、この私が何を書くのかと、ゲーテに限らず毎度毎度思いながら書いています。
ある程度の歳になれば、良いことも、また悪いことも長くは続かないということを知る。稀に続くこともあるから、発言は配慮するべきだということも合わせて知る。
ゲーテによれば、「幸福な日の連続だけは我慢できない」ということだが、良い日も悪い日もそう続きはしないという感覚が正常であれば、幸福とされる日の連続は異常であり、且つ、そのような環境は人を堕落させる要因にも成るだろう。そうなったからには、我慢ならないのも無理はない。
ゲーテは「世の中のことは何でも我慢できる」とも言っている。ご褒美があるに違いない、という私の邪推は的を得ているだろうか。我慢や忍耐は、成功の意味に用いられることが多い。それだけでも十分そうなものだけど、目的無しには語りづらい概念となっている。
元々、私は精神的な活動を公にしようという意思が薄い。それは私が我慢や忍耐をしていないからかも知れない。好きなことを好きなだけやっているのか、やりたくないことをやらないだけなのか、それは分からない。けれど、形にしたがる人々を見ると、皆一様に我慢や忍耐という努力をしている。そんな人々が自らの生きる意義や帰結先を必要とするのは、我慢や忍耐という言葉を意識した以上当然であり、否定しようものなら、逆説仕様で散々攻められるに違いない。
求めないことによる幸福は逃げ腰の幸福であり、その意義は偏に苦しまないことにある。幸か不幸か、人間には使命感にも似た追求心が植わっているらしい。たとえ要らないものだとしても、求めようとする本能がゆっくり眠る暇を与えない。
求めることによる幸福も危険を孕んでいる。本音と言葉がかけ離れていく人がいる。衝動や才能が穢されていく。
幸福という言葉はとても難しい。ゲーテは、幸福な日が連続すること以外は何でも我慢できると書いた。帰結先を求めている間は、たとえ苦難の連続であっても、耐えていけるのだろう。日々の成長と希望の故に。しかし、帰結先に辿り着いてしまえば、それ以上の希望はないという絶望を知ることになる。私達、今の人間は真の幸福を知ることはない。知ったとしても、それを幸福だと思うことが出来ない。何故なら、私達は今この瞬間でさえ、幸福を探しているのだから。