猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

「霊剋る我が命」と31歳で見切った茂吉のふるさと金瓶村を、また訪ねてきました…

2018-10-11 06:24:52 | あんじゃあない毎日

斎藤茂吉が生まれた旧金瓶村(現:上山市金瓶)の集落の路地です。茂吉の墓を訪ねたんです。

  ふるさとの蔵の白かべに
  鳴きそめし蝉も身に沁む晩夏のひかり

金瓶は蔵のある家がたくさんあります。茂吉の生家の蔵は漆喰が塗られた白壁でした。でも、金瓶の蔵の多くは漆喰が塗られていない土色の土蔵でした。で、記念撮影。

 

  羽越線のかみのやま温泉駅の次に無人の「茂吉記念館前」という殺風景な駅があります。そこから、桜並木の坂道を登ると「斎藤茂吉記念館」があります。金瓶村を訪ねる起点です。
記念館には茂吉の歌碑が二つあります。
一つには、トンボたちが羽を休めていました。

  ゆふされば大根の葉にふるしぐれ
  いたく寂しく降りにけるかも

  あしびきのやまこがらしの行く寒さ
  鴉のこゑはいよよ遠しも

蔵王連峰が眺められる記念館を拝見してから、金瓶村へ向かいました。茂吉の碑が立つ熊野岳は雲の中でした。

  熟れた実で枝が折れてしまいそうな柿の木があちこちにある坂道を下り行きます。崖の木立の切れ目から下の集落が見えています。湯坂という名の集落、その向こうを流れる須川の対岸に金瓶村はあります。

  坂を下りきると葡萄畑のある農道に出ました。
まだ紫のブドウの房がいっぱい、これから収穫期のようです。スチューベンかな、それともワイン用の赤ブドウかな…

  田んぼ道を過ぎて、羽越線をくぐり抜けると金瓶村に続く橋に出ます。

  をさなくて見しごと峯のとがりおる
  三吉山は見れども飽かず

茂吉もこの橋の上から三吉山を眺めていたんだと思います。須川の石ころは赤く染まってます。鉄分を含む水が流れているみたいです。

 

   村の入り口に茂吉の墓がある法泉寺があります。幼少時代の茂吉はこの寺の住職から学び、終生の師としたみたいです。

  白萩は法泉寺の庭に咲き乱れ
  餓鬼に施すけふ早やも過ぎ

本堂脇の白萩は、盛りを過ぎていました。

  茂吉の墓です。
脇にイチイの木が植えられています。別名「アララギ」、茂吉や伊藤左千夫など正岡子規の指導を受けた歌人たちが集まって1909年(明治42年)に創刊された歌誌のタイトルになった木なんです。
真っ赤な実がなってました。これって、果肉だけは食べられるんです。一粒頂きました。

  のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて
  足乳根の母は死にたもうなり

1913年(大正2年)、茂吉は実母の守谷いくをこの地で見送ったんです。
茂吉は、東京の斎藤家に婿入りしていたのですが、母の看病のために帰郷し、この地で看取ったんです。

   法泉寺の隣りには、幼少の茂吉が学んだ学校の建物が残っています。その隣に、茂吉の生家「守谷家」があります。

 

土蔵と生け垣の路地です。少年時代と、母の看病をしていた時の茂吉が通った道です。
美しい道です。

  赤い実がなっています。ウメモドキかな…
シオンの花です。

  金瓶の路地を廻っていました。人に会うことはありませんでした。また赤い実です。ガマズミみたいです。

8年3か月前、この地を訪ねたのは、茂吉の生涯は70歳9ヶ月、もし同じならば、同じでいたいのであれば、残された時は5年と8か月だったんです。茂吉が大事なものを得、大事な人を失った地で、「失う」ことの意味を考えたかったんです。
私は70年9ヶ月を越えちゃいました。まだ生きてます。でも、大事なものを失いました。
まだ何もわかっていないのです。酒を飲み、笑い飛ばして生きてます。

 

  柿の実がいっぱいです。
どの道の先にも、人の暮らしがあるみたいです。ここは、金瓶村です。冬には、雪に埋もれてしまうんですね。

   すでにして蔵王の山の真白きを
   心だらひにふりさけむとす

集落から抜け出すと、蔵王連峰が見えていました。真っ青でした。

 茂吉が母の亡骸を荼毘に付した火葬場の後は金瓶の田んぼのど真ん中にありました。

  灰のなかにははをひろへり朝日子の
  のぼるがなかにははをひろへり

8年前、ここに案内してくれた老人のことを思い出しました。元気でいるのかな…

 

  火葬場脇の田んぼでイナゴに会いあました。

  駅への帰り、道端の田んぼの稲穂の間から目いっぱい背伸びしたミゾソバの花を見ました。畔脇にもたくさんのミゾソバでした。

 

  「茂吉記念館前」駅の入り口の畑、洋梨みたいです。
青い実がたくさんぶる下がっていました。

  あかあかと一本の道通りたり
  霊剋る我が命なりけり

「大正二年の秋の一日代々木の原を見わたすと、遠く一ぽんの道が見えてゐる。赤い太陽が団々として転がると、一ぽん道を照りつけた。僕らは彼の一ぽん道を歩まねばならぬ。貫通せる一本の道が所詮自分の『生命』そのものである」。母を見送った年に茂吉が詠った歌、その自注です。
覚悟がようなんだなって思います。
「霊剋る」は「たまきわる」、語義は不確かみたいだけど、「霊極まる」、「命が終わる」って意味だっていう人が多いのです。

大正2年というと、茂吉はまだ31歳、凄いな、その若さで、「我が命」を見切る覚悟をしてたんですね。

美しい東北の村の風景の中で感じていたのは、茂吉の心の強さでした。

 <うん、8年前よかちょっとは善くなったかなってとこだいね。
「あんじゃあない」なんていってる間はさ、「霊剋る」はなかなか遠いみたいだいね…>

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の吉啓、二代目吉駒と昭和12年から続けてまいりました美登利会を引き継がせていただきました。
二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、よろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

4月8日の第75回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください


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2 コメント

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山形でしたか! (富士山麓の住人)
2018-10-11 12:17:17
ヒゲクマ様
山形への久々の一人旅、列車トラブルとかはあった様ですが、無事ご帰還されまして、一読者としてホッとしております。森毅の「居直り数学のススメ」がかつて愛読し、チャランポランみ磨きをかけている私には、あんじゃあない、心構えが非常に共感を覚えております。茂吉さんのとはまた違う時代背景の中で世を過ごし、同じ時を共有させていただいていますことに、感謝しております。これからもブログを楽しみにしております!
ありがとうございます (ヒゲクマ)
2018-10-11 21:12:20
この間、ちょいとした事情から旅をすることもままならない日々を過ごしおりました。
ひょんなことから山形へ出向くこととなり、懐かしい風景の中に身を置くことができました。もともと、父が福島の出で、東北はなじみやすい風景です。ありがたいことです。
これからもよろしく。

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