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新発田城に登城!

2012年03月02日 | お城関連の史跡
日本100名城31番 新発田城に登城!



利用した駐車場の関係で二の丸からの登城。
平成16年に復元された三階櫓が目に飛び込んできます。
三階櫓はT字型になった3つの入母屋屋根に3匹の鯱が乗った全国唯一のもの。
午後の日差しが強くて櫓の白壁に反射する光が目に刺さるわ~

新発田城の天守相当だった三階櫓はなぜT字型の屋根なのか分かっていないそうです。
左側の青い壁の向こう側が自衛隊の駐屯地。昭和28年から本丸の大部分と二の丸が
自衛隊の敷地となり、映画「八甲田山」のロケで使われたとガイドのおばちゃんが言っていた。
明治政府が絡むとろくなことがないというのはよく思うけど、自衛隊もなぜに?と思う。



旧二の丸隅櫓は二ノ丸北部にあった乾櫓を昭和34年に解体修理を行って
本丸鉄砲櫓跡の現在地に移築したもの。なまこ壁がおしゃれw
ここから三階櫓を眺めるアングルは切込接ぎの石垣の長さも感じられ素敵!
寛文8年(1668)の大火で城のほとんどが焼失し、翌年の地震で石垣が崩れたため、
当時最高の技術であった切込接ぎと算木積みで積みなおされているのだそうだ。



本丸表門に着きました。当時の橋はいざという時切り落とせるよう木橋だったという。
表門は享保17年(1732)に再建された櫓門。桁行9間(約16.3m)、梁間3間(約5.4m)。
年代を超えてきた重厚な色の柱や梁が年季を感じさせる堂々たる門構え。



本丸表門を入ったところに建つ初代藩主、溝口伯耆守(ほうきのかみ)秀勝の像。
藩主に恐れ多いからと当時の人は箒(ほうき)のことを「なで」と呼んだのだとか。

新発田城は元々、鎌倉御家人佐々木加地氏の一族である新発田氏の居館があり、
戦国期に新発田重家が上杉景勝と7年に渡る抗争の末に敗れ、天正15年(1587)落城。
慶長3年(1598)秀吉の命により、加賀大聖寺から溝口秀勝が6万石で入封し築城を開始。
3代藩主、宣直の頃(1654)に完成するが、50年以上の歳月をかけて築いた城は、
二十数年後の寛文8年(1668)の大火で焼失することになる・・・おお切ない。




次は辰巳櫓。二層二階入母屋造、本瓦葺。平成16年に三階櫓と共に復元されたもの。
堀部安兵衛の父である中山弥次右衛門が管理責任者を務めていたが、
櫓の焼失の責任を取って浪人。安兵衛は家名再興のため江戸に出ることとなった。

赤穂浪士は好みじゃないから忠臣蔵の話や主役級の人の名前は知っていても、
その人たちのバックグラウンドなんて知らないから、こんなところで名前を聞いて
ちょっとびっくり。堀部安兵衛が藩祖、溝口秀勝の曾孫だというのにも驚きw



礎石が見えるようガラス張りになった床。ガイドのおじさんの説明によると、
礎石に柱が建っているのがイメージできるようガラス板を利用して柱が映るように
しているのだとか。素敵なアイディアだと思ってちょっぴり感動しました。



手前から辰巳櫓、本丸表門、旧二の丸隅櫓が並ぶ本丸南面の3ショット。
青空が映えそうな・・夕方になってきて陽が落ちかけた頃なのが残念。
新発田城は周囲に湿地が多く、城の周りにあやめがたくさん咲くことからあやめ城とも、
加治川の堤を切って周囲を水浸しにする設計がされたため浮舟城とも呼ばれたそうだ。



謎に包まれた3匹鯱を最後にもう1度見て新発田城登城終了。


2012年も2か月終わったのにワタクシのエントリーはまだゴールデンウィークΣ(゜Д゜)!

次はようやく夏の登城~福知山城からスタートですw



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