倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

鹿島神宮の御船祭

2006-04-20 22:32:05 | 歴史
 学研発行の「全国一の宮めぐり」と題する本を購入した。今まで巡ってきた神社を思い出しながら、懐かしくページをめくった。
鹿島神宮のページを見ていてふと気になる写真に目が止まった。それは御船祭の写真である。鹿島神宮に参拝した時に入手したパンフレット(鹿島神宮参拝のしおり)にも御船祭の写真は載っていたが、その写真は普通の漁船に大漁旗をなびかせて、多くの舟が進む写真であった。「全国一の宮めぐり」に掲載されている写真は漁船とは全く違う船が写っていた。普通の漁船の十倍はありそうな大きな船の船首に、竜が飾られた立派な船である。写真には次のように説明文が添えられている。「御船祭の水上巡行ーー龍頭によって飾られた御座船に神輿が遷され、大船津川岸から佐原市加藤州へ向かう」。そしてこの祭りは例年行われるのではなく午年の年、つまり12年ごとの9月2日に、90艘以上の大船団がが参加する勇壮華麗な祭りであると説明されている。
この説明を読んでかねてから唱えてきた私の仮説『天孫族と出雲族の最終戦争は関東平野で行われた』と言う話の裏付けではないかと感じた。今一度説明すると天孫族のエース建御雷神は大船団を引き連れ鹿島に上陸し、北関東を攻めた。一方建経主神は同じく利根川の南岸の佐原に上陸し南関東を攻めた。戦勝を記念して夫々の上陸地点に社を建てた。それが現在の鹿島神宮と香取神宮である。
鹿島神宮の御船祭りとはこの上陸の様を再現しているのではないだろうか。神社の祭りで神輿を担いで川や海に入る祭りは多いが、船で河に入る祭りは私は知らない。それも90艘という大船団が、正に建御雷神が天の鳥船神を従えて出雲に乗り込んだという古事記の話と重なる。
もし出雲で決着が着いていたならば出雲の稲佐の浜に、建御雷神を祭った神社が建っていたのではないか。
気になって香取神宮のページをめくってみた。思ったとおりの写真が載っていた。祭りは鹿島神宮と違い「神幸祭」と呼ばれている。しかし写真の船は鹿島と同じように船首に大きな飾りがあるが龍頭ではなく鷊首(ゲキと言う名の・鵜に似た羽の白い想像上の水鳥)が飾られている。説明文には「神輿は御座船に遷されて出立し、対岸の鹿島神宮のお迎祭を受ける」とある。この‘迎える'と言う表現の中に日本書紀に建御雷神は建経主神の副将とされている事が現れている。
船の台数は記載が無いので大船団であるかは定かでないが、鹿島神宮に無い記事があった。それは利根川のほとりに香取の大神・建経主神が上陸した地に木の大鳥居が立っていると言う写真であった。やはり私の推測通り建経主神は利根川南の佐原に上陸し、利根川の南の大国主命の兵と戦った事を裏付ける状況証拠の一つではないか。
香取神宮のこの祭りは鹿島神宮と同じように午年の年に盛大に行われる。日取りは鹿島より早く4月15日にとされている。この事は先ず建経主神が先に関東の南を攻め、半年送れて建御雷神が関東の北を攻め上ったということを現しているのかもしれない。この両神宮の祭りが見たくなったが、次の午年はまだズーと先なのが残念だ。
この関東最終戦争については昨年11月3日のブログ『建御雷神について考える』で詳しく書いているので、興味のある方は覗いていただければ幸いである。
 

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