人生第2幕スタートして20数年、畑を掘り・印を刻り・木を彫りの半分・自然に親しむ生活です

篆刻の実力は段位に
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と円空佛・日常を綴って
います

篆刻の心構え

2022-11-15 14:24:06 | 篆刻
年月の経過はあっという間です。
光陰流転とか光陰如箭とか申しますが。

丁度、22年経過しました。
篆刻の門を敲いてからですが。

故・中島先生(元・全日本篆刻連盟会長)は丁度、小生より
ひと廻り上の同じ干支です。
文化センターでいちばん最初に課題を与えられたのが
「日新」ということばです。
この言葉は単なる課題ではなく今後の心構えを示唆されたと
当時、思いました。
「日新」という言葉の出典を調べましたら
中国の古典「大学」に

苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり

の一節と分かりました。
「大学」という古典は見たことも読んだこともありませんが。



生まれて初めて鉄筆を握り、ざくっ、ざくっという音は
何とも言えない初めて耳にする音でした。

テンコクのテの字も知らない当時の小生の作品です。
巧拙を別にして懐かしい作品です。
印のサイズは2.5cm四方です。
2回目からは随意は自分で字書で調べて作品にしました。
当時は書道雑誌の中に篆刻の部があり、課題と随意と
両方あって作品作りのため熟語を色々と調べた記憶です。

先生は寡黙で作品をお見せしても
「う~ん、いいよ」
または黙って印稿を作って渡される、という感じでした。
「いいよ」はいろんな解釈ができますので???も
ありました。
先生の頭脳には大半の漢字の金文、篆書体を記憶されていて
字書が無くてもさっと添削や印稿を作られ、すごいなあ、と
思ったものでした。

申し添えれば小生は単なる生徒であり、弟子ではありません。
お弟子さんは数人おられ、日展入選歴など履歴は雲泥の差です。

こうした地位の差は篆刻という世界では大きく異なりますが
篆刻を離れれば同じ人間であり人生の先輩ということで
接していました。
時々、ご自宅でのご指導では先生と二人だけの時は
篆刻以外の相撲や岐阜県出身の野球選手のはなしを
お聞きしたりしましたのも懐かしい思い出です。






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