年月の経過はあっという間です。
光陰流転とか光陰如箭とか申しますが。
丁度、22年経過しました。
篆刻の門を敲いてからですが。
故・中島先生(元・全日本篆刻連盟会長)は丁度、小生より
ひと廻り上の同じ干支です。
文化センターでいちばん最初に課題を与えられたのが
「日新」ということばです。
この言葉は単なる課題ではなく今後の心構えを示唆されたと
当時、思いました。
「日新」という言葉の出典を調べましたら
中国の古典「大学」に
苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり
の一節と分かりました。
「大学」という古典は見たことも読んだこともありませんが。
生まれて初めて鉄筆を握り、ざくっ、ざくっという音は
何とも言えない初めて耳にする音でした。
テンコクのテの字も知らない当時の小生の作品です。
巧拙を別にして懐かしい作品です。
印のサイズは2.5cm四方です。
2回目からは随意は自分で字書で調べて作品にしました。
当時は書道雑誌の中に篆刻の部があり、課題と随意と
両方あって作品作りのため熟語を色々と調べた記憶です。
先生は寡黙で作品をお見せしても
「う~ん、いいよ」
または黙って印稿を作って渡される、という感じでした。
「いいよ」はいろんな解釈ができますので???も
ありました。
先生の頭脳には大半の漢字の金文、篆書体を記憶されていて
字書が無くてもさっと添削や印稿を作られ、すごいなあ、と
思ったものでした。
申し添えれば小生は単なる生徒であり、弟子ではありません。
お弟子さんは数人おられ、日展入選歴など履歴は雲泥の差です。
こうした地位の差は篆刻という世界では大きく異なりますが
篆刻を離れれば同じ人間であり人生の先輩ということで
接していました。
時々、ご自宅でのご指導では先生と二人だけの時は
篆刻以外の相撲や岐阜県出身の野球選手のはなしを
お聞きしたりしましたのも懐かしい思い出です。
光陰流転とか光陰如箭とか申しますが。
丁度、22年経過しました。
篆刻の門を敲いてからですが。
故・中島先生(元・全日本篆刻連盟会長)は丁度、小生より
ひと廻り上の同じ干支です。
文化センターでいちばん最初に課題を与えられたのが
「日新」ということばです。
この言葉は単なる課題ではなく今後の心構えを示唆されたと
当時、思いました。
「日新」という言葉の出典を調べましたら
中国の古典「大学」に
苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり
の一節と分かりました。
「大学」という古典は見たことも読んだこともありませんが。
生まれて初めて鉄筆を握り、ざくっ、ざくっという音は
何とも言えない初めて耳にする音でした。
テンコクのテの字も知らない当時の小生の作品です。
巧拙を別にして懐かしい作品です。
印のサイズは2.5cm四方です。
2回目からは随意は自分で字書で調べて作品にしました。
当時は書道雑誌の中に篆刻の部があり、課題と随意と
両方あって作品作りのため熟語を色々と調べた記憶です。
先生は寡黙で作品をお見せしても
「う~ん、いいよ」
または黙って印稿を作って渡される、という感じでした。
「いいよ」はいろんな解釈ができますので???も
ありました。
先生の頭脳には大半の漢字の金文、篆書体を記憶されていて
字書が無くてもさっと添削や印稿を作られ、すごいなあ、と
思ったものでした。
申し添えれば小生は単なる生徒であり、弟子ではありません。
お弟子さんは数人おられ、日展入選歴など履歴は雲泥の差です。
こうした地位の差は篆刻という世界では大きく異なりますが
篆刻を離れれば同じ人間であり人生の先輩ということで
接していました。
時々、ご自宅でのご指導では先生と二人だけの時は
篆刻以外の相撲や岐阜県出身の野球選手のはなしを
お聞きしたりしましたのも懐かしい思い出です。