いとうな日々

MLB、プロ野球他野球全般、ニュースなどについて、勝手にコメントさせて頂いてます!

元西鉄監督の川崎徳次さん死去

2006-04-26 | プロ野球
元西鉄監督の川崎徳次(かわさき・とくじ)氏が25日午後0時16分、胆管がんのため福岡県久留米市の病院で死去した。84歳だった。通夜は26日午後7時、葬儀・告別式は27日午後1時から、いずれも久留米市野中町865、久留米草苑で。喪主は長女紀子(のりこ)さん。

佐賀県出身。40年に南海に入団。戦後の46年、巨人でプロ球界に復帰。50年、創設された西鉄に中核選手として移籍した。2リーグ分立後の53年には24勝15敗、防御率1・98でパ・リーグの最多勝と最優秀防御率の2冠を獲得。57年に引退するまで通算188勝156敗の成績を残した。

巨人時代の49年4月の大映戦では、先発し8本塁打を浴びたが、自ら満塁弾を含む3本塁打で9打点を挙げ、15-13で完投勝利した。被本塁打8と、投手の9打点はプロ野球記録で、投手の3本塁打は同タイ記録として今に残る。

現役引退後は西鉄のヘッドコーチとして三原脩監督を支え、60年から2年間監督を務めた。67年には阪神の投手コーチも務めた。

【nikkansports.com】

■ 川崎 徳次
1921年5月7日生まれ。佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(投手、外野手)・監督。久留米商から満州の撫順炭鉱を経て、1940年のシーズン途中に福岡ソフトバンクホークス|南海に投手として入団。日本大学夜間部にも在籍し、1942年に応召。ビルマでの拘留生活を送った。1946年10月に読売ジャイアンツ/巨人で日本球界に復帰。1948年に最多勝を獲得。1950年の西武ライオンズ/西鉄クリッパース創設に伴い移籍。1953年に最多勝と最優秀防御率の2冠を獲得。1957年に現役を引退。引退後はコーチを経て、1960年から2年間、西鉄の監督を務めた。その後、球団常務、阪神タイガース/阪神のコーチを務めたのち、東京でうどん屋を経営。1979年からは鳥栖市で喫茶店を経営。

通算成績
■投手:505試合 188勝 156敗 172完投 49完封 1148奪三振 2870.1投球回 防御率2.53
■打者:649試合 1203打数 251安打 10本塁打 98打点 8盗塁 打率.209
■監督:276試合 151勝 116敗 9分 勝率.566
■最多勝2回(1948年、1953年)、最優秀防御率1回(1953年)

戦争の荒廃の中から復活を遂げたプロ野球界。その陰には、死線を越え戦いに敗れた兵隊の波乱に満ちたもう一つのプロ野球史があった。プロ野球史の空白を埋めた男、川崎徳次自伝。

【目次】
久留米商から撫順炭鉱へ―職業野球入り、そして戦争/職業野球選手が兵隊になったとき/いきなり1000キロの行軍/戦地で会った吉原捕手の優しさ/「死線」から脱け出た幸運/危機一髪の泰緬鉄道からジャワへ/ジャワ・南方軍幹部候補生隊/南の島での実戦訓練/4億2000万円を持ってタイ運河を渡る/再び、激戦地へ〔ほか〕


昭和33年、日本シリーズ伝説の逆転劇を演じた知将・三原脩がめざしたのは、アメリカ大リーグのような、プロ野球経験者による、ファンのための野球だった―。

川崎徳次氏との逸話も紹介されています。


にほんブログ村 野球ブログへ
↑blogランキングに参加中です↑