ヴィパッサナー瞑想では、ひとりでもなぜ自己洞察が深まるのか。おそらく一つの理由は、心随観がヴィパッサナー瞑想のシステムの一部であり、その全システムの力に支えられて効果を高めるからだ。
たとえば身随観と心随観とは、相補的な役割を果たしている。身体のセンセーションに集中する(身随観)とき、逆にそこからはずれる心の動きは鮮明に浮かび上がってサティを入れやすくなる。そうした訓練が、一刻一刻の心の動きへの洞察をめざす心随観にも影響を及ぼす。つまり、あるがままの心の動きに気づき、それを受容する力が増す。そして日常生活のなかで激しい感情に囚われたときでさえ、深い気づきが可能になっていくのだ。
やや別の観点から整理すれば、自我の編集作業なしにあるがままのセンセーションに気づく訓練(身随観に代表される)は、自我による抑圧なしにあるがままの自分の姿を認める自己洞察と不可分に結びついている。自我による外界の歪曲と、自我による内界の抑圧という二つの事実の深い関係は、心理療法の世界でもよく知られている。しかし心理療法はふつう、内界の抑圧への働きかけしかしない。
両者を平行して行う方法、しかもセンセーションへの集中が内界の動き(抑圧されていた感情に基づく雑念・妄想)を浮き上がらせるところを見逃さず、それを巧みに「利用」するという「斬新な!」方法。これが心理療法にとっていかに「画期的な」方法と映るか、ご理解いただけるだろうか。
以上は、おそらくヴィパッサナー瞑想のシステム全体の相互作用の一端にすぎないだろう。しかし、こうした相互作用があるからこそ、この瞑想を一人で行っても深い自己洞察に至ることが可能になると信じる。少なくともその一つの理由ではあるだろう。
私は、現代の心理療法と比較することで逆にこの瞑想法が、心理療法とは比較できない奥深い基盤に立った、きわめて洗練された体系的な方法であることが際立つだろうと直感している。ヴィパッサナー瞑想を実践的に学びながら、そうした比較による考察の作業を少しづつ行っていければと思う。
たとえば身随観と心随観とは、相補的な役割を果たしている。身体のセンセーションに集中する(身随観)とき、逆にそこからはずれる心の動きは鮮明に浮かび上がってサティを入れやすくなる。そうした訓練が、一刻一刻の心の動きへの洞察をめざす心随観にも影響を及ぼす。つまり、あるがままの心の動きに気づき、それを受容する力が増す。そして日常生活のなかで激しい感情に囚われたときでさえ、深い気づきが可能になっていくのだ。
やや別の観点から整理すれば、自我の編集作業なしにあるがままのセンセーションに気づく訓練(身随観に代表される)は、自我による抑圧なしにあるがままの自分の姿を認める自己洞察と不可分に結びついている。自我による外界の歪曲と、自我による内界の抑圧という二つの事実の深い関係は、心理療法の世界でもよく知られている。しかし心理療法はふつう、内界の抑圧への働きかけしかしない。
両者を平行して行う方法、しかもセンセーションへの集中が内界の動き(抑圧されていた感情に基づく雑念・妄想)を浮き上がらせるところを見逃さず、それを巧みに「利用」するという「斬新な!」方法。これが心理療法にとっていかに「画期的な」方法と映るか、ご理解いただけるだろうか。
以上は、おそらくヴィパッサナー瞑想のシステム全体の相互作用の一端にすぎないだろう。しかし、こうした相互作用があるからこそ、この瞑想を一人で行っても深い自己洞察に至ることが可能になると信じる。少なくともその一つの理由ではあるだろう。
私は、現代の心理療法と比較することで逆にこの瞑想法が、心理療法とは比較できない奥深い基盤に立った、きわめて洗練された体系的な方法であることが際立つだろうと直感している。ヴィパッサナー瞑想を実践的に学びながら、そうした比較による考察の作業を少しづつ行っていければと思う。