祖谷渓挽歌(いやだに・ばんか)~藍 友紀(あい・みゆき)著

「2007年自費出版文化賞」大賞受賞作品の紹介およびその周辺事情など。

2017-7-6/若蛙の会縁起(寮歌つれづれ1)

2017-07-06 23:04:25 | Weblog
『若蛙の会』=代表・谷津精衛氏~旧制一高昭和25年卒)の縁起

 

 「若蛙の会」は、昭和25年の学制改革によって強制的に潰された所謂旧制高校」の全寮歌を掘り起こし、その佳曲は後世に歌い継がれるようにしようと、1989年の発足以来、引き続き活躍している会である。一口に旧制高校と言ってkも全国では40校近くもあり、そこで作られた寮歌は3000曲に近い。譜面を通読するだけでも、相当の努力と根気を要する仕事である。

 ところで、こんな大事業の発起人となったのは、旧制八高から東大経済学部に進んだ鈴木啓一氏と、旧制一高から東大文学部史学科に進んだ谷津精衛氏の二人である。この二人の偶然の出会いが、「若蛙の会」発足の端緒を開いたと言ってよい。

 この二人の出会いが面白いので、やや脱線気味になるが、略記して置こう。

 当時、東京では毎年一回、日比谷公会堂で日本寮歌祭が開かれていたが、地域的な寮歌祭というと、練馬寮歌祭が唯一のものだった。これは四高出身の安原一郎氏と市川定三氏が中心になって開いていたのであるが、1988年秋の寮歌祭の時、一高から出席した谷津氏が、「お魚博士」として著名な末広泰雄氏が瀕死の床についていることを知っていた。谷津氏がそれを知っていたのは、彼がNHK在任時代、末広氏を起用して作った番組が「日本賞」なる国際番組コンクールに入賞したことから親密になり、渋谷のバーなどで屡同席する仲になっていたからである。そして、その末広氏が作曲家でもあって、最初に作った曲が八高寮歌の名曲「春は日影」であることを聞かされていた。そこで谷津氏は、その「春は日影」を練馬寮歌祭の席上、八高のOBたちに歌って貰って録音と録画をし、病篤い末広氏の枕辺に届けたら喜んで貰えるのではないかと考え、一高幹事の服部氏に頼んでみた。すると服部氏も賛成し、早速、八高きっての寮歌通、鈴木啓一氏を谷津氏に紹介する傍ら、この曲の歌唱を頼んでみた。この話は鈴木氏から更に八高幹事の岡村氏に伝えられ、ここに八高勢全員賛成の下に、春は日影」が歌われた。この録音と録画は、その日のうちに末広博士の枕辺に届けられ、谷津氏は末広博士から大変、感謝された。とくに末広氏は、その3日後に逝去されたので、この企画は、末広氏にとっても、あの世に持参する嬉しい土産になったと思われる。

 ところが、その後、まもなく、練馬寮歌祭の事務局内部にトラブルが発生した。その内容は複雑なので省略するが、かねてから「両雄並び立たず」の譬え通り、安原・市川両氏の間には陰湿な対立があった。市川氏が運営する練馬寮歌祭が開会後まもなく、先輩の安原氏が仲間を大勢さそって退場し、翌日に予定されている安原氏主宰の栃木寮歌祭の前夜祭をやると称して半ば骨抜きにしてしまうという場面もあった。

 そんな対立が伏線となっていたために、両者の軋轢は容易に納まらない。遂に、安原氏は、寮歌祭の幹部の中から、浦和の渡邉、山形の滝沢、女性幹部の和田氏を引き連れて練馬寮歌祭を脱退し、毎月第二木曜に開催する「二木会」なる催しを池袋の藤屋の二階で挙行するという分裂騒動となってしまった。





 





 この第一回の二木会に、どんなメンバーが出席するかに、人々は注目した。二木会幹部は、各校の幹部を一本釣り方式で誘った。

 ところが、これに乗らずに頑張っている者がいる。一高を統率する服部氏である。彼は誘いに応じなかった。そこで二木会側では、元一高玉杯会のリーダー星合久司に声を掛けた。だが星合は服部先輩に遠慮して出席を断った。彼は先だって肺気腫で倒れた玉杯会本来の総帥常泉浩一から一高の総指揮を執るよう既に数年前から命じられており、事実、数回のリードを日比谷公会堂など晴れの舞台で披露して喜んでいた。だが、そこへ突然、新日鉄を定年退職して釜石から東京に帰ってきた服部氏の常泉への強談判によってリーダーの地位を奪い取られて気落ちしていた処である。ここで服部氏を怒らせれば、どんな酷い目にあうか、わからない。そう考えて服部氏に同調し、その分、自棄酒を飲んで気を紛らせていた。(結局、星合氏は、数年後、肝硬変でこの世を去ることになる)

 こうなると三番手は、最若年の谷津氏である。彼は服部氏の府立一中での後輩でもある。年も15歳ほど違う。その谷津氏は、初めから仕事があるのでと欠席届けを出していた。その理由は嘘ではなく、実際に仕事が入っていたからで、決して服部氏に遠慮したものではなかった。寧ろ彼は「反逆児」「一匹狼」を以て自認している男だから、先輩風を吹かせての説得などに対しては、逆に反抗する姿勢を示すのが常である。中学時代から、数学や物理の教師の誤りを指摘して困らせるのが好きで、もしも当の教師が素直に間違いをみとめなかったりすると、グーの音も出ぬまで懲らしめるという悪趣味の持ち主である。

 二木会の総帥、安原氏は、その辺の呼吸を心得ていて、谷津氏に直接、電話で出席を求めた。そして率直に、「一高勢には悉く断られた。残るは君だけだ。どうだ。俺の言うことを聴いて、出てくれないか」実際に仕事の入っている谷津氏は、否応なく断らざるを得なかった、という。だが安原氏は引かなかった。「君は俺に一高抜きの寮歌祭をやらせるつもりか。見損なったぞ!」谷津氏は困った。実は一月ほど前の大門寮歌祭で、松山の常連、片山氏が欠席だった機会を捉えて、「僕に代返させて下さい」といいざま、進み出て、「見渡せば、瀬戸の海辺の・・・・・」と片山氏発案の前口上まで付けて、若葉の古城」を声はりあげて歌った。日ごろは借りてきた猫のように振舞っていた谷津氏が、突然、豹変して熱唱を始めたので一同は驚き、安原大臣などは殊の外よろこんで、谷津氏の自宅あてに、我が家で取れた巨大な椎茸の大箱を贈呈してきたほどである。その安原氏に、俺の言うことが聴けないのか」と凄まれては、谷津氏も冷ややかな態度は取れない。そこで一旦電話を切って貰って、総帥服部氏に相談を持ちかけた。すると服部氏曰く、「二木会に集まっている連中は、これまで秩序ある行動をとってきた練馬寮歌祭の反乱軍だ。言いか、反乱軍なんだ。だから私は出席を拒否して、練馬の良識と言われている片山氏や鈴木氏を通じて、彼等の帰順を進めているところだ。その矢先に君が一高の看板を背負って行くと言うことは、ドンナ意味を持つか考えてみることだ。僕は出ろとか、出るなとかいうことは言わない。あとは君の良識で判断しなさい」

 服部氏からの電話が終ると、谷津氏は少考の後、安原氏に電話して、出場予定者の名前を聞いた。有力メンバーの殆どが入っている。服部氏の言動は、余りにも思い上がりが過ぎはしまいか。だいたい彼は、釜石から帰ってきたばかりで、全校寮歌の世界に足を踏み入れてから間もない。それに玉杯会でのリードを聞いていると、彼は寮歌を本当は知らない。節回しも始終、間違えるし、歌い崩しに至っては、テープを真似ているだけで、全然、寮歌の雰囲気が出ていない。それなのに、年かさに物を言わせて,あれほど嬉々として一高寮歌をリードしていた星合を押しのけてまで、一高リーダーの地位を簒奪するのは、先輩として余りにも大人げないのではないか。谷津氏は、そんなことを考慮して、安原氏に、「多少遅れるかもしれませんが、出席させて頂きます。家内も連れて行きますから、宜しくお願いします」と返事した。それが服部氏の怒りを買うことは、当然の事として受け入れるつもりだったという。





 ところで若蛙の会」である。この会は

鈴木氏との出会いから始まったと前に書いた。その記念すべき出会いを作ったのが、この第一回二木会だったのである。

 谷津氏の隣に座っていた大柄な丸顔の人が、谷津氏の傍に擦り寄って行くのが目撃された。この丸顔の人こそ鈴木氏なのだが、ここで二人の会話を立ち聞きしてみよう。

「この前は有難うございました。末広さんが病気だとは知りませんでした。.教えていただいたお陰で、死に際の大先輩を少しは喜ばせることが出来たと、みな喜んでいるんですよ」と鈴木氏。

「ああ、あれは、うちの服部先輩から、お宅の鈴木さんという人に、歌ってもらえないだろうかと頼んだんですよ。そしたら鈴木さんが二つ返事で引き受けてくれたとか言うんで・・・・・。僕も末広さんには、とてもおせわになっているので、喜んでもらって嬉しいんです」谷津氏の答えに鈴木氏が解せないと言う顔をしている。

あの・・・・・鈴木は僕なんですけど・・・・谷津三は、岡村さんと僕とを取り違えているんじゃないんですか?」

「えっ! 何ですって? いつも八高のリードをとっている背の低いメガネを掛けている人、あの人も鈴木さんでしょ?」

「いや、違いますよ。あの人は岡村と言って、僕より10歳も年上ですよ」

「えっ! 鈴木さんは貴方だったんですか。それでは貴方が八高の皆さんに『春は日影』を頼んでくれたんですね。お見それして済みません」

「いやあ、そんなこと、全然ないですけど・・・・」と言いながら、鈴木氏は何故か一高野寮歌集を持っていて、「一高に

は、いい寮歌が沢山あっていいですね」

と褒めるが、谷津氏はそれを儀礼的なお世辞と取ったらしい。

「いやあ、一高は数が多いばかりで、内容は駄作が殆どですよ。まあ、枯れ木も山の賑わいと言いますけどね」

 すると鈴木氏が一高の寮歌集を見ながら歌いだした。

「青旗の 小旗の上に・・・」

 谷津氏は驚いた。これは戦後の寮歌で、戦死した寮生の魂が記念祭にやってきて、一緒に記念祭を祝ってゆくという歌である。暗い歌なので、皆で合唱するには適さない。だから一高生の中でも、この歌を知っている人は稀である。続いて鈴木氏は、

「漁火きえゆき・・・・・」と、これも一高生は殆ど歌わない寮歌を歌いだした。

 谷津氏が唖然とした表情で、

どうして鈴木さんは、他校の、しかも、そんな隠れた名歌をご存知なんですか?」谷津氏の質問に鈴木氏が頭を掻いた。

「いやあ、僕はNHKにいたものですからね、方々から送ってくるテープを聴いたり、新しくテープを作ったと聴くと、電話で送ってもらったり・・・・・」

「何ですか! 鈴木さんはNHKにおられたんですか?」

「ええ、僕はNHKに詰めっきりでした。谷津さんは?」

「いやあ、僕もNHKなんですよ。いやですねえ。もっとも僕は18年で追い出されましたけどね。最後は姥捨て山こと愛宕山の研究室に島流しされましたからね、あんな所、いてもしょうがないから辞表を書いてやめましたよ」

と谷津氏が苦笑いする。すると鈴木氏。

「いやあ、僕は、現場には一年居たきりで、後はずっと姥捨て山です。谷津さんが愛宕山に居たのは、いつ頃ですか?」「そうですねえ。昭和51 ~2年頃ですかねえ」

その頃なら、僕は確実に、愛宕山にいましたよ」

所属jはどこですか?」

「放送史です。谷津さんは?」

「僕は番組研究部です。もっとも姨捨山なんて馬鹿にしてると思ったから、大抵、4回で高宮さんと碁を打っていましたけどね。下へ行くのは、食堂で昼飯、食う時くらいです」

「昼飯は食堂ですか。それじゃあ、何度もお会いしてる筈ですね」

「鈴木さんは昭和生まれですか?」鈴木の言葉使いが余りにていねいなので、谷津は聞いたのだろう。

「僕は昭和三年です」

「僕は昭和5年だけど、早生まれだから、学年は一年違いですかねえ」

「世の中、せまいですねえ」

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