感謝と報謝とは、「ありがとう」という意味で使用されてきました。しかし、実は大きく異なっているのです。「感謝します」は、「ありがとう」という言葉です。それ以上の事は要求されません。ところが、「報謝」という言葉を使用した場合は、言葉だけでなく、あくまでもその心を形にあらわす必要が伴うのです。つまり、ほどこされた恩に言葉だけで「ありがとう」が感謝であり、ほどこされた恩に対しての「ありがとう」という言葉と、それに対する行動を伴うのが「報謝」なのです。
ですから、石山戦争に際して、当時のご門徒は「阿弥陀様にお救いいただいた恩」に報いる行動として、仏敵である織田信長に対して武器を持って立ち上がったのです。いわゆる一向一揆です。そこは、死地であることが判っていても、阿弥陀様・親鸞様から受けたご恩に対しては、行動で示す必要があったのです。これが、「報謝」という言葉の厳しさなのです。又、今は亡きお爺さんが親鸞聖人のご苦労を偲ぶために、聖人のご苦労を示す蒔絵(まきえ)のお仏壇を購入されました。これも報謝なのです。つまり、誰のためのご苦労であるのか?ずばり、罪深い私の為です。それを形で表せば「聖人のご苦労を描いた蒔絵入り」のお仏壇購入となるのです。この「報謝」の心は、そのお家で脈々と相続されていくものなのです。
親鸞聖人は、「感謝ではなく報謝せよ」とお勧めです。『歎異抄』の第14条にも、「一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。」( 浄土真宗聖典註釈版845頁)【現代訳・・一生を通じて称える念仏は、みんな全部、阿弥陀様の私達への無限に大きな慈悲であり、その恩徳を感謝し、それに対して報いることが必要とおもいましょう】ここにも、聖人は「報」と「謝」ともあわせた「報謝」という言葉を使用されています。「お救いいただいた恩に感謝し、その恩に報いる行動をせよ」とご教示なのです。
この聖人の「報謝」の思想は、有名な「恩徳讃」に結集しているのです。「恩徳讃」、それは和讃(仏様を讃える歌)の最高傑作といわれる「正像末(しょうぞうまつ)和讃(わさん)」(聖人85歳の作品)の全58首の最後に出てきます。
高田専修寺(蔵)・・「正像末和讃より恩徳讃」・・聖人の真筆本と言われてきました。
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし」
「正像末和讃」、全58首の末尾に置かれた「恩徳讃」です。聖人の深い思いがあった筈です。お念仏を喜ぶ者は、自分がどうようになろうと必ず必ず報謝しなければならない程の深いご恩を受けているのです。この事を決して忘れてはなりませんと聖人は言われているのです。
お西の研修会では、この「恩徳讃」を歌い修了するのが定番です。しかし、この「恩徳讃」に流れる報謝の心を判らずして歌っている方が殆どです。私は、「恩徳讃」を歌うことはなかなかできません。たじろいでしまうのです。気軽に歌ってよい歌とは根本的に違うのではないかというのが結論です。重い重い歌なのです。定番として歌うのであるならば、「恩徳讃」の持つ重要なキーワードである「報謝」という言葉の説明は、最低限必要なのではと強く思う事です。
ですから、石山戦争に際して、当時のご門徒は「阿弥陀様にお救いいただいた恩」に報いる行動として、仏敵である織田信長に対して武器を持って立ち上がったのです。いわゆる一向一揆です。そこは、死地であることが判っていても、阿弥陀様・親鸞様から受けたご恩に対しては、行動で示す必要があったのです。これが、「報謝」という言葉の厳しさなのです。又、今は亡きお爺さんが親鸞聖人のご苦労を偲ぶために、聖人のご苦労を示す蒔絵(まきえ)のお仏壇を購入されました。これも報謝なのです。つまり、誰のためのご苦労であるのか?ずばり、罪深い私の為です。それを形で表せば「聖人のご苦労を描いた蒔絵入り」のお仏壇購入となるのです。この「報謝」の心は、そのお家で脈々と相続されていくものなのです。
親鸞聖人は、「感謝ではなく報謝せよ」とお勧めです。『歎異抄』の第14条にも、「一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。」( 浄土真宗聖典註釈版845頁)【現代訳・・一生を通じて称える念仏は、みんな全部、阿弥陀様の私達への無限に大きな慈悲であり、その恩徳を感謝し、それに対して報いることが必要とおもいましょう】ここにも、聖人は「報」と「謝」ともあわせた「報謝」という言葉を使用されています。「お救いいただいた恩に感謝し、その恩に報いる行動をせよ」とご教示なのです。
この聖人の「報謝」の思想は、有名な「恩徳讃」に結集しているのです。「恩徳讃」、それは和讃(仏様を讃える歌)の最高傑作といわれる「正像末(しょうぞうまつ)和讃(わさん)」(聖人85歳の作品)の全58首の最後に出てきます。
高田専修寺(蔵)・・「正像末和讃より恩徳讃」・・聖人の真筆本と言われてきました。
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし」
「正像末和讃」、全58首の末尾に置かれた「恩徳讃」です。聖人の深い思いがあった筈です。お念仏を喜ぶ者は、自分がどうようになろうと必ず必ず報謝しなければならない程の深いご恩を受けているのです。この事を決して忘れてはなりませんと聖人は言われているのです。
お西の研修会では、この「恩徳讃」を歌い修了するのが定番です。しかし、この「恩徳讃」に流れる報謝の心を判らずして歌っている方が殆どです。私は、「恩徳讃」を歌うことはなかなかできません。たじろいでしまうのです。気軽に歌ってよい歌とは根本的に違うのではないかというのが結論です。重い重い歌なのです。定番として歌うのであるならば、「恩徳讃」の持つ重要なキーワードである「報謝」という言葉の説明は、最低限必要なのではと強く思う事です。
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