【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

関係

2011-08-14 18:12:23 | Weblog

 殺人犯人がよく主張する「騒がれたので殺した」というのは、「騒ぐ」が「原因」で「殺される」が「結果」の因果関係? それとも「されたら『人が騒ぐようなこと』を他人に平気でする」人間は「殺人も平気でする」という、相関関係でしょうか?

【ただいま読書中】『被曝国アメリカ ──放射線災害の恐るべき実態』ハーヴィ・ワッサーマン、ノーマン・ソロモン、ロバート・アルヴァレズ、エレノア・ウォルターズ  著、 茂木正子 訳、 早川書房、1983年、2300円

 1945年9月23日アメリカ軍が長崎に進駐しました。海兵隊員たちは爆心地近くに宿泊し、瓦礫の撤去などに従事しました。アメリカ軍の公式見解では「残留放射能は心配ない」。しかし数十日後、彼らの中に奇妙な症状が出始めると、突然帰国命令が出、他の地域よりも優先的に除隊が完了します。そして帰国後、兵士たちは医者が首を捻る“奇病”につぎつぎ見舞われることになりました。復員兵たち、あるいは著者らの個人的調査では、爆心地近くで過ごした兵士たちの集団では、高率に癌や骨髄系の病気が多発していました。ところがアメリカ政府は、あっさり門前払い。政府が何らかの対応を始めたのは、1979年になってからのことですが、その最初の仕事は「否定」でした。復員軍人たちとの交渉の拒否、放射線後遺症が存在することの否定、それらの兵士の症状が放射線によるものであることの否定、さらにはそれらの兵士が広島や長崎にいたことまで否定します。
 ここまでは数百人あるいは数千人の話でした。こんどは数万人の話が始まります。
 アメリカは1946年にビキニ水域で核実験を行ない、そのとき“実験”として生身の兵士を投入しました。核爆発直後に飛行機でその空域を通過したり船で“危険水域”ぎりぎりまで近づいたり(あるいはそこにしばらく滞在したり)、潜水をしてサンプルを採取したり、爆心地近くに設置した船の除染作業をしたり。
 これは「科学」のためというよりは「広報」のために行なわれたようです。ヒロシマ・ナガサキのあと、本書で見る限りショックを感じ自責の念を持ったアメリカ人はけっこう多かったようですが、ビキニの実験でその「安全性」が確認されたことによって世論は「安堵感」一色となります。
 48年にアメリカはマーシャル群島で核実験を繰り返しますが、そこでは2万人の兵士が動員されました。もちろん“原住民”には何も知らされませんでした。51年にはネヴァダ州での核実験が開始されます。1952年の「オペレーション・タンブラー=スナッパー」では、32キロトンの核爆発から4マイル地点に兵士が待機し、核爆発後2時間以内に爆心近く(熱くてそれ以上近づけない地点)まで移動、という“作戦”が実行されました。その兵士たちに何が起きたかは、「急性放射線障害」「催奇形性」あたりで検索をしてみてください。そして核実験場の風下にはユタ州がありました(風がラスヴェガスやロサンゼルスに向かっているときには実験は延期されました)。牧歌的な風景の中で暮らす人々は、核実験の度に閃光や轟音や振動を感じ、「雲」が流れてくるのが見えました。そして数年後から人々に“異変”が起き始めます。
 そういえば“それ”がジョン・ウェインの“死因”だと主張しているのが『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(広瀬隆)でした。その元ネタ(の一つ)が本書かな。(私見ですが、本書を読んだら『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』を読む必要はありません)
 もちろん原子力委員会(と政府)の公式見解は「否」です。羊が死ぬのは牧羊業者のせい。白血病の多発は、データが握りつぶされました。79年までに1000件以上の訴訟が起こされましたが、政府は連戦連勝でした。原子力委員会は「放射線は安全」神話を流布し続けますが、それは数字のごまかしと内部被曝を無視したもの(つまり「人間は、飲食も呼吸もしない」という前提に基づく主張)でした。
 そうそう、第五福竜丸の事件もありました。ここで特筆するべきは、被害者に賠償金が支払われたことです。当時の米政府の態度からは異例のことです。
 やがて核実験は地下に移動しますが、そこからも放射能漏れの事故は起き続けます。そして政府がそれを隠蔽し続けたことも同じでした。
 本書はそこでは終わりません。平和利用(あるいは民生用・商業用)での被曝の話も登場します。医療用の放射線、原子力産業の労働者、原子力発電所、そして、スリーマイル島の事故(漏出した放射性物質の量やその評価についてのどたばたは、なかなかすごいものです。TMI周辺地域の一時的な乳幼児死亡率の上昇とそのデータの隠蔽工作を「どたばた」と表現するのは不謹慎かもしれませんが)。
 それぞれの「現実」の積み重ねには暗澹たる思いもしますが、それ以上に印象的なのは、米政府の“首尾一貫した態度”です。「危険」に対する「科学」の評価と対策ではなくて、「危険だと言う人」に対する“対策”の方を重視し続けます。当然私としてはこんなことも思うわけです。「日本政府は違うのか?」と。もしも本書の姉妹編として『被曝国ニッポン』が書かれたら、そこにはどんな「国の姿」が描かれるのでしょうか? それとその終章が「フクシマ」なのか、それともさらに別の……なんてことも思うのです。




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