小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

岡倉天心著、「茶の本」を読む:

2014年07月05日 | 書評・絵本
岡倉天心著、「茶の本」を読む:
東日本大震災の影響で、茨城県五浦(いづち)にある岡倉天心の晩年の幽棲地とした六角堂が、大きな被害を被ったというニュースを耳にしたことがある。日本美術院の縮小が決定的となった失意の中での幽棲だったのであろう。英文で書かれた著作の4部昨、即ち、東洋の理想、日本の覚醒、東洋の覚醒、そして、茶の本、である。それにしても、短い文章であるが、極めて、その漢籍・東洋学・美術額などに、造詣が深いことが、その難解な日本語の言い回しにも、端的に表れていて、文章の短さに較べて、遙かに、難解である。内容構成は、第一章の人情の碗、そして、順番に、茶の流儀、道教と禅道、茶室、芸術鑑賞、花、茶の宗匠達の最後で、千利休の最後の茶の湯の様子で、締めくくられている。殊更、ここで、詳細を述べるよりもご一読戴いた方が、もっとも、英語版の方が、分かりやすいかも知れないが、両方を同時に、併読してみる手もあるが、、、、、。それにしても、文久生まれの武士は、どうも、子供の頃から、その素養が、昭和の戦後民主主義の下で、子供時代を過ごした我々とは、根本的に、その基礎的な素養が、謂わば、ベースから違うのかも知れない。まるで、それは、テレビに出てくる帰国子女上がりの流暢な英語を喋ることの出来るタレントに、英語で、わび、さびを説明してみろと問いかけるかのように、全く愚問であるのかも知れない。英語の著作を表す以前に、既に、フェノロサ、ビゲローや、ボストン美術館中国・日本部門の美術品の発掘・鑑定・再興などの事業に携わってくる上で、すでに、ベースに、漢籍の素養や日本文化、宗教にも、精通している、そうした素養の上に、確かな目で、日本文化を考察し、更には、不当な理解を示す外国人、全世界の無理解な人種に、広く、日本文化を喧伝せしめようとしたのかも知れない。今日、日本として、海外発進力が、今こそ、求められている時代はない。何故、あれ程までに、戦後、世界的な規模で、商社のネットワークが、張り巡らされ、日本の優れた商品が世界中で使用されているにも拘わらず、その文化・伝統・歴史が、一部のフジヤマ・ゲイシャ式にしか、表層でしか、伝えられなかったのであろうか?やたら、松下幸之助や本田宗一郎の名前だけが、知れ渡ったのに対して、茶の湯・活け花等の真の文化的な心が、広く、世界の隅々にまで、行き渡らなかったのであろうか?これひとえに、文化人、知識人の問題だけではなく、一般の我々にも、考えさせられることが大きい。何故か、天心のそれは、明治期の福澤諭吉的な文明論との対局に、位置していないようでもない。60年代後半の戦後民主主義の否定を通じて、止揚しようとした文明論的な主題は、残念乍ら、今日、ひとつとして、遺産としても、残っていないのは残念である。これは、団塊の世代としても、大きな問題である。たわいのないアメリカ人から、天心達が、「おまえ達は、何ニーズなのか、チャイニーズ、ジャパニーズ、ジャワニーズ?」と問われたときに、すかさず、英語で、「We are Japanese gentlemen. But Are you a Yankee, or a Donkey, or a Monkey ?」と切り返したというではないか。そんなウィットに富んだ当意即妙な英語が、ビジネス英語ではなくて、すらすら、やってみたいものである。それにしても、今日、外交交渉でも、貿易交渉でも、況んや、日本文化情報の発信を也であろうか?岡倉天心が生きていたら、今日のCool Japan への取り組みや和食の世界文化遺産認定を、一体、どう、捉えることであろうか?今日の日本で、これらを快刀乱麻に英語や中国語で、海外発信できる何人の知識人がいるのであろうか?何とも、物足りなく感じざるを得ない。一人一人が、天心のようになることは難しいことではあろうが、少なくとも、草の根レベルで、外国人にも自国の文化・歴史などを説明出来るだけの日本語・外国語の素養を持ち合わせたいし、そういう教育を日常生活の中で、意識的に創り出してみたいものである。