Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

アイム ソーリー

2020年12月10日 09時52分52秒 | エッセイ
Adele - Hello (Live at the NRJ Awards)

    何と辛らつな——「あなた、その歌、意味が解って聞いているの? 
    解っているふりして聞いているのって、本当にいけ好かないのよね」
    ——妻のいきなりの一撃だった。
    英国の人気女性歌手・アデルは、
    そ知らぬふりして「Hello」と歌っている。

正直に明かせば、英語のヒアリング力は、ほぼゼロに等しい。
これは中・高校生時に受けた英語教育のせいだと思っている。
その頃は、もっぱら「読み・書く」のみの授業で、
「聞く・話す」なんてことはまったくなかった。
たまに街で外国人を見かけると、「話し掛けられたらどうしよう」とドキドキし、
できるだけ目を合わさず、そのまま回れ右をすることさえあった。
そんなだから、聞いただけで何をどう歌っているのか解るはずがない。
「読み・書く」オンリーだった英語教育が、何とも恨めしい。
そう責任転嫁してしまう、しようもない世代なのだ。
結局、妻に言い返えそうにも「うっ」と詰まる始末となる。

    もっとも、中・高校生の時に教わった「読み・書く」の、
    わずかな英語力を駆使し、辞書の力も借りれば、
    「こんなことを歌っているのだな」程度のことは解る。
    だから、ほとんどの洋楽、主に英語の曲は事前に歌詞カードなどを見て、
    あらましの内容を判読しておき、軽快なものであったり、
    しんみりとしたものであったり、その曲調に合わせて聞き、
    「うん、いい歌だなあ」なんて楽しむことはできはする。
    だが、それは聞き流しみたいな、その程度のものなのである。

そうだからだろうか。年を取るにつれ、洋楽がだんだん遠のいていくような気がする。
どんな歌にも——あえて言えば、メロディーにも、歌詞にも情感がある。
特に歌詞は心を震わせ、時に涙させることさえある。
わずかな英語力による和訳の歌詞では、そんな情感までは感じ取れない。
やはり「うん、いい歌だな」程度となる。
            
    それが、日本語による日本の歌だったら、
    そんな情感が自分のことのように身近なものになってくる。
    おかしなことに年を取ると、そんな情感を余計に求めるようにさえなる。
    若い頃、父や母たちが聞いていた演歌、「どこが良いのだろう」と
    見向きせず、ビートルズに熱中した。
    ソーリー ビートルズ——今は、君たちの歌を聞くことはまれとなった。
    代わって、父や母たちのように「悲しい酒」や「舟唄」、
    そんなものがしきりに聞きたくなるのだ。