今回は「新京阪電気鉄道株式会社」現(阪急京都線)が今年で開通90年になるのでUPする事にします 「新京阪電鉄」開通90年と一口に云っても開業するまで色々難題があり こゝでUPしきれない事をご承知の程を・・・この時代世界的な大恐慌で資金の工面に非常に苦労していた 先ず京都側ターミナルは(西院)から地下線で(河原町)までの特許が(新京阪)に下りたが大阪側のターミナルを何処にするか悩んでいた そんな時「北大阪土地」が経営していた「北大阪電気鉄道」現(阪急千里線・淡路・十三)間と(淡路・天神橋六丁目)間の特許を得ていたが途中の(淀川)に大きな鉄橋を架ける費用がない為放置されていた そこに目を付けた「新京阪」は その特許を譲って欲しいと申入れたところ「北大阪土地」は「会社ごと」買収して欲しい旨の回答なので「新京阪」本線より一足先に開業となり「旧北大阪電鉄」で使用していた「1形」と「10形」が「新京阪」の所属となった そして「天六」から「淡路」〜「高槻町」現(高槻市)〜「西院」まで開通させ 昭和3年に(京都御所)で執り行われる(昭和天皇)の即位御大典に「西院」地上仮駅まで何とか間にあわせた 続いて地下線の工事を進め昭和6年に「大宮」まで地下線で開通させた この先「河原町」までは第二次世界大戦等で 32年間待たねばならなかった さて苦労して開通させたが経営は苦しく 親会社の「京阪電気鉄道」に合併したり独立したり大変な時期であった その苦難時代戦争も激しくなると昭和18年国策で現「阪急」の「阪神急行電鉄」「京阪電気鉄道」「新京阪電気鉄道」が強制的に合併させられ「京阪神急行電鉄株式会社」となった (他にも強制合併させられた電鉄もあったがこゝでは省く) そのまゝ終戦を迎え昭和24年12月終戦後徐々に落ち着いてきた時期 全国で合併させられていた鉄道会社がそれぞれ元の会社に訣れていったのである その時「京阪電鉄」としては当然返ってくるものと思っていたが 時の(原内務大臣)が仲裁に入り「京阪」に対し(なぁ京阪君、気持ちはよく解るが線路も繋がっているので こゝは{淀川}を挟んで西側を阪急君に任し その替り{淀川}の東側を京阪君の手で(琵琶湖)(比叡山)も含めて発展さしていってくれ、今後百年の計にたって了承してくれ 頼む、云々・・・)と云われ「京阪側」は渋々(わっ解ッかりました)と云う事で苦労して開通さした「新京阪」が「京阪神急行電鉄」現「阪急」に残り「京阪神急行」の{京都線}になり現在に至る事になった 原内務大臣は(阪急君、京阪君が苦労して建設した「新京阪線」を仇や疎かにするでないぞ・・・)に対し「阪急側は」(重々承知しております・・・)との事で以後「京阪神急行」現「阪急電鉄」と「京阪電鉄」は良きライバルとして現在の形態で続いている 「京阪電鉄側」は{軒下貸して母屋取られる}「京阪神急行側」は{棚からぼた餅}の形になった 長くなるので簡単に表記したが実際の話し合いはもっと大変な様であったとの事である 写真上は:「新京阪」開業に際し新造した当時 東洋一と云われた電気車(100系)通称(Pー6)で技術遺産として「京阪」に敬意を祓い「阪急正雀車庫」で動態保存されているサイドビュウ 写真下左:同車正面 写真下右:同車運転席
追記:この昭和24年は鉄道関係に大きな変革のあった年であった 全国で強制的に合併させられた会社の多くは元に戻る会社もあれば、そのまゝ買収された会社もあった そんな中で一番の改革は、今まで国の(鉄道省)の管轄であり(省線)と呼ばれていたものが「日本国有鉄道」(JNR){ジャパニーズナショナルレールウェイ}が誕生「国鉄」の略称が使われるようになった その後昭和62年11月に 天文学的累計赤字で「国鉄」を分解民営化し(7会社)に分割され頭に「JR」{ジャパンレールウェイ}となり現在に受け継がれ活躍を続けている
写真:小生保存 文責:小生 013-001