戸惑い八景

見たり聞いたりしたモノを独自に味つけしました。
飛騨の高山から発信しています。

高校演劇

2011年07月19日 | 想うこと

日曜日、高校演劇の地区大会を観てきました。

といいましても、時間の都合で、昼からの2作品しか観劇できませんでしたが・・・。

関係者、家族以外で観ているのは、私たち夫婦くらいしかいなかったかもしれません。

もしかしたらですけれど・・・。

妻が高校演劇部OBということもあり、息子も部活こそ違い現役高校生なので、わりと親近感を持ちながら会場へ向かいました。

もっとも、間隔は空くにしても、ここ10年近く観続けている、ともいえます。

まあ、高校野球のファンであるのと同じように、高校演劇のファンであると言ってもいいかもしれません。

それはひとえに、高校生ならではの表現を観たい、という思いもあります。

彼ら彼女らの生の声を聴きたい、という興味もあります。

何を思っているのか、何を考えているのか、何に悩んでいるのか、が作品に表れるだろうと期待しながら観るわけです。

ですが、実際の作品には、生の声が表現されていない気がします。

高校生活の中で、それは何も学校の中だけでなく、社会や家族との関わりや軋轢を含めて、感じられた想いがセリフとなってあらわされるかと期待しているのですが、ないような感じです。

ただ、それは観る側の思いこみかもしれません。

創っている側は、そんなことには興味がなく、面白いから楽しいから、行っているのでしょう。

それはそれでいいでしょう。

また、部活なのですから、演技を含め技術を学ぶ場で、人間形成の場でもあるのだと、割り切れれば、それもいいでしょう。

でもそうあるならば、あまりにもお粗末な出来具合だったな、と思わざる得ない作品でした。

幕間討論で、討論になってなく褒め殺しの場かとも思えましたが、「・・・クオリティーが高い」という賞賛の声が何回か出ました。

それを聞き、ここ10年近く見続けている私は残念に思えました。

クオリティーというならば、確実に落ちてきています。

かつては、演技を含め、照明、音響、舞台装置、等の出来具合は、どこの学校もある程度のレベルはあったものです。

それは、先輩から後輩へ確実に引き継がれていたもので、先生の指導も適正だったからのものでしょう。

基本的な表現がしっかりしていて、その上で、オリジナリティーがあるか、観る者の胸に響いてくるか、というところの勝負だったはずです。

それが最近の作品を観ると、学校によっては、先生がまったく指導をしていないのでは、と思えるような作品もありました。

作品は高校生が創るものです。

ですが、ある程度導いてやらなければ、基本的なものは身に付きません。

生徒の遣りたい放題では、その生徒に気の毒です。

さてそこで、もう一度高校生ならではの表現、ということですが・・・

なにもそれはオリジナルにこだわれ、ということではなく、例え既成の台本を使おうと、彼ら彼女らが創れば、高校生ならではの作品になります。

本来は・・・。

では、なぜそれが感じられないかと考えれば、軽佻浮薄な傾向が作品作りにも影響しているのかな、と。

けっか、味の薄いものが出来上がる。

まあ、ちょっと面白ければそれで満足、てなことになっているのでしょう。

幕間討論がいい例ですが、決して非難しない。

それは他校だから、と遠慮しているのかもしれませんが、もしかしたら、仲間内でもあまり討論しないのでは、と思えるのです。

妻は、ウン十年前の高校演劇部員で、しかも激戦区であった名古屋の高校生でしたが、話を聞くと、当時の幕間討論は応酬が激しかったそうです。

痛いところを突かれ、泣いたこともあるそうです。

まさに、遠慮なしの討論の場になっていたわけです。

それがゆえに、良い作品が多数生まれたのでしょう。

重箱の隅を突き、非難し合うばかりが良いわけではないですけれど、遠慮していたらダメだと思います。

お互いのためにならない。

本当にそのセリフで良いのか、その表現で納得しているのか、と突き詰めることで、彼ら彼女らでなければ表現できないものに仕上がっていくのでしょう。

結局は、原石だけでは表現にならず、叩き上げていくという作業が必要なんだと思います。

そんな面倒なことはしたくないでしょうが、そこに、ものを作り上げる喜びもあるわけです。

もっとも、ある程度の技術がなければ、意味のないものになってしまいますし・・・

よくよく考えれば、先生が悪い、ということに・・・しときます。