晴遊雨読・暢呑夢酔の戯れごと

絶景かな!!浅間山、空気と水の美味しい町で余命人生エンジョイ中

津金寺の 仁王門くぐり 葵の紋

2007-07-21 22:10:35 | Weblog
07年7月21日(土)

 今朝もはっきりとしない梅雨空である。雀のうるさいさえずりが聞こえるのみ。
昨日のムクゲ移植で体のあちこちが痛む。でも6時30分には起床する。
 命の綱であるお米を早速にYK氏が届けてくれる。そしてお願いした「立科の方言」も持参してくれる。有難い!!

 このあいだやったと思ったが、キュウリの生育がよく下に垂れてしまっている。
手というかソデというのか何本かのポールを立て紐で縛る。トマトも同じだ。
エダマメのところが草で見えないほどだ。雨でアットいうまに伸びたようだ。
 この分だとモロコシ畑も、ネギもそして家の周囲もビーバー除草をしなくてはいけない。でも今日はダメだ!!

 歴史研究会の7月定例会があり、公民館に出向く。図書館に寄ろうと思い早めに出るが、床の磨きとかでは入れない。心配した雨も降らないので外で開会式。
20名位集まったか?年会費2,000円を払う。
 目的地の津金寺まで各自移動する。忙しい住職が説明をしてくれる。
津金寺の語源は定かでないという。寺は普通音読みなのに、津金寺は訓読みになっている。鎌倉時代の古文書に「信州佐久の津金寺」と記されているそうだ。
 上房、本坊、下房とあり坊さんの学校・談義所であったという。
小谷村から萱と職人がきて屋根の葺き替えが済んだ仁王門、文化10年(1813)に建立された立川流の傑作である。九頭竜権現作の仁王2体は、荒削りだが県下でも大きいものという。
 道を隔てて武田信玄が休んだという「休み石」にかぶとをかけた「兜松」
いま「風林火山」ブームだが、長野県人は武田信玄が嫌い!?
 策略により城を落とし、見せしめに男はさらし首に、女は甲州に売りとひどいことをしたのである。
「甲州人には騙されるな!痛みつけられた!」肥沃の地を奪われた恨みが消えないという。だから、のぼり旗は立てないとも言うほどだ。

 本堂観音堂は、岩見城で鉄砲に撃たれて撃ち死にした芦田信繁ゆかりの寺。
町づくりの活性化に活用してほしいという。戦国の大武将である。
武田の家来としても戦ったが、徳川家康にも気に入られて、松平の姓を貰い「葵の紋」が付いている。水戸黄門で出される、印籠の紋だ。それに武田の紋もある。

 妙見堂の裏のかぎを開けて中を始めて見せてもらう。
立川流の見事な彫刻に圧倒される。素晴らしい芸術である。
 五輪塔1,000個は県下一の最多で、室町時代から戦国時代の作という。

 五無斎先生の碑、地元では不人気だが県内外では評価が高いそうだ。
「我死なば 佐久の山部へ 送るべし・・・」と言っているので、山の資料館から早くに山部に移すのが適切だろう?
明治元年6月8日生まれ、44年の6月7日に生涯を閉じるとはこれも奇人のゆえか?

 県宝・滋野宝塔は日本で4番目に古い、鎌倉時代初期の作という。牧場が16あり、望月牧は80頭のうち20頭を献上した、それを司っていたのが滋野氏という。

 ナンジャモンジャやフジキ、春にはカタクリ、アズマイチゲ、そしてヤマブキソウが寺の裏山傾斜に一面に咲く景勝寺・津金寺。早くも秋の萩が咲き始めている。

 住職の観光案内人顔負けの、流れるような説明には感動する。
一つでも覚えておき、人に説明をしてあげたいものだ。
 楽しく有意義な歴史研究会であった。