比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

初冬の中山道・・・旅の終りは・・・馬籠宿・・・島崎藤村記念館

2019-02-06 | 旧街道・峠道・旧宿場
信州上田の・・・六文銭の写真帳

初冬の中山道・・・「是より南 木曽路」の碑から贄川宿・・・平沢間の宿・・・奈良井宿・・・福島宿、妻籠宿、さらに南へ。
妻籠宿」から木曽11宿最後の「馬籠宿」にやってきました。

木曾路馬籠・・・明治・大正・昭和にかけての文豪島崎藤村の生れた村・・・藤村はこの宿の本陣、問屋、庄屋を勤める島崎家に生れました。明治に入り宿が廃され島崎家は没落していきます。その流れを書いた小説が「夜明け前」。木曽の山中の馬籠宿の名前を世に広めました。明治の大火により本陣は跡形もなく消えていきましたが、藤村の名声を慕う青年たちの「ふるさと友の会」によって1947年島崎藤村記念館が本陣跡地に建てられました。建築にあたって村びとたちは無償でその工事を手伝ったそうです。設計は東宮御所、国立近代美術館、千鳥ヶ淵無名戦士の墓の設計で知られる谷口吉郎。1971年第二文庫、1984年第三文庫完成。



※撮影日は11月27日、
島崎氏の系譜・・・神奈川県三浦半島横須賀の三浦氏の流れをくむ横須賀の永島家に関わりがあるのでしょうか。藤村は晩年に永島家を訪ねています。室町時代の終り16世紀のはじめに一族郎党とともにこの地に移住していますが経緯は不明です。木曽福島に居を置く木曽氏の傘下に。16世紀末の長久手の戦いで羽柴軍木曽氏方に与し、馬籠城落城で妻籠城に引いて籠城、功多く、このあたり一帯の代官職に。江戸時代に帰農し自作地、小作地含め6町2畝の地主に。妻籠宿、馬籠宿の本陣、宿問屋、庄屋を勤めました。

島崎藤村・・・1872年長野県筑摩郡馬籠村(現岐阜県中津川市山口字馬籠)に生れる。1878年長野県筑摩郡神坂村、神坂小学校に、1881年兄秀雄に連れられ東京に。銀座泰明小学校、三田英学校、神田共立学校を経て明治学院学校(現明治学院大学)。明治学院教師、仙台市東北学院教師など勤め。1897年詩集「若菜集」発表。1899年小諸町小諸義塾教師。1906年小説「破戒」発表。小説「春」、「家」、「千曲川のスケッチ」、「新生」などを発表。1926年ごろより小説「夜明け前」執筆準備。1929年「夜明け前」連載開始、1935年「夜明け前」第1部、2部完結。1943年死去。

宿場をすぎて石畳の道を少し南に下ると島崎藤村の書による「是より北 木曽路」の石碑が。2006年馬籠が岐阜県中津川市に越境合併する前の県境であったところです。今は妻籠宿と馬籠宿の間、馬籠峠が県境になりました。合併にあたっては住民の間でもいろいろあったそうです。長野県民にすれば藤村のふるさとが他県になってしまう寂しさが、馬籠の住民にしては信州人としてのアイデンティティーと日常の生活圏が完全に岐阜県中津川市という現実、ジレンマもあったでしょうね。木曽の谷が長野県になったのは明治維新後です。古代より美濃国恵那郡、信濃国筑摩郡尾張領として明治維新までつづいてきました。いずれにしても木曽は古来より「木の国」・・・そのことには変わりません。それでいいと思います。

最後に「木曽」の話し・・・「木曽」という地名、初出は702年「続日本記」だそうです。表記は吉蘇、岐曾、吉祖などいろいろ、最後に「木曽」に落ち着きました。意味はアイヌ語説も含め諸説あるようですが決め手はないようです。いずれにしても木曽は「木の国」です。

初冬の中山道・・・木曾路の旅はこれにてオワリです。
《参考にした本》
岸本 豊著中山道69次を歩く」(信濃毎日新聞社 2001年刊)、「宿場町旅情 写真紀行」(産業編集センター 2017年刊)、「新しなの地名考」(信濃毎日新聞社 1975年刊
中山道を歩く」(山と渓谷社 2006年刊)、新潮社日本文学アルバム島崎藤村」(平凡社 1984年刊)、高木俊輔『夜明け前』の世界 大黒屋日記を読む」(平凡社 1998年刊)。

※コメント欄オープン。