【歯顔大笑】

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127.【磯歯津路】

2012-08-06 | 
【磯歯津路】

この漢字、みなさん、読めましたか? また、ご存知でしたか?  これは歴史的にとても古い道の名前
で ”しはつみち” と読みます。 私にとっては地元大阪の話ですが、全く知らず読む事もできません
でした。

それでは 磯歯津路(しはつみち) について書いていきましょう。

時代は5世紀後半、雄略天皇の時代にまでさかのぼります。古代日本の歴史書である 『日本書紀』によれば、
雄略天皇の時代に身狭村主青(むさのすぐりあお)という人物が呉国(中国の江南地方)の使いと共に機織の
技術者を連れて、住吉津(すみのえのつ)にやってきました。その一行は古代の宮がある奈良へと向かうの
ですが、その時に作られたのがこの 磯歯津路(しはつみち)なのです。
つまり、”呉の国から渡来した織姫たちが通った国際街道(シルクロード)”といえます。



しかし、実際にはこの”磯歯津路”は発掘ではまだ見つかっていません。つまり、”まぼろしの街道” なの
です。考古学の発掘から、住吉津周辺で5世紀後半以降に出土品が増加することや、南住吉遺跡や喜連東遺跡
などで発見された古墳時代から奈良時代の建物群は、この時期に「住吉」と「長吉」 を結ぶ交通路があった
ことを示唆しています。
現在の道でいうと、摂津・河内の国境線ともなる八尾街道、今の 長居公園通り と考える説が有力です。




”まぼろしの街道”とはいえ、古代の河内や大和・飛鳥 へとつながる道が、古代住吉の発展に果たした役割の
大きさを考えれば、”まぼろしの街道”だからといって軽く見ることはできないのです。


名前の由来・・・
住吉津は入り江になっていて、日本最古の国際港でシルクロードの日本の玄関でもありました。この住吉津と
大和・飛鳥を結ぶ幹線道路は、歯のようにジグザクに入り組んだ磯に沿った路だったので、磯歯津路(しはつ
みち)と呼ばれました。 海を越えて来たいろいろな文化が都に運ばれ、それが後に住吉街道となりました。

(参考 大阪文化財研究所 京嶋覚氏 の説明より)