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読書「氷壁」井上靖 上高地が賑わうキッカケになった恋愛小説

2019-03-23 17:21:34 | 読書

          
 1956年(昭和31年)2月24日から1957年8月22日まで朝日新聞に連載され、1957年に新潮社が発刊した「氷壁」。63年も前の時代で当時が色濃く反映されている。地名や言葉遣い、衣類といったもの。

 テレビ放送が1953年2月1日NHKが開始したが、庶民には高根の花。街頭テレビが関の山。普及し始めるのは1959年の現天皇のご成婚からと言える。従ってこの小説にはテレビは一切登場しない。

 「合オーバー」「ハンチングベレー」「数寄屋橋」「アベック」「勘定場」「女給仕」などがあって「合オーバー」は、冬と春の間に着るコート。スプリング・コートとも言っていた。今は着る人はほとんどいない。「ハンチングベレー」はいわゆる「短いつばがついている狩猟用のベレー帽」のことで「鳥打帽」とも言った。「数寄屋橋」は、晴海通りの「数寄屋橋交差点」付近にあった橋。この数寄屋橋が有名になるのは、NHKラジオドラマ「君の名は」によってである。「アベック」→「カップル」「勘定場」→「レジとかキャッシャー」「女給仕」→「ウェイトレス」

 さて、「氷壁」は、1955年に実際に起きた「ナイロンザイル切断事件」に着想を得て、小西乙彦と親友の魚津恭太の二人の登山家に加え、魚津が勤める新東亜商事の東京支社長常盤大作という豪快さと細かい気配りの出来るプロデューサーのような役割を担う男、エンジニアの夫八代教之助とその妻美那子、それに小坂乙彦の妹かおると山小屋関係の数人が登場人物。

 それぞれの繊細な心の動きが見ごとに描出される。特に女性の心理が異彩を放つ。それになんと言っても堂々たる主役は、前穂高岳や奥穂高岳という北アルプスの山岳地帯だ。

 私が奥穂高岳に登ったのは、1985年の夏だった。この小説の評判は知っていて、河童橋から横尾山荘までの途中に徳沢園(小説では徳沢小屋となっている)があって、その前を通るときこの小説の舞台になったのを思い出していたのを記憶している。物語の後半には穂高山荘へ、私たちのたどったルートを小坂の妹かおるもたどることになる。

 正月登山を小坂と魚津は決行した。前穂高岳の東壁を攻めることだった。東壁にもいくつかのコースがあるが、二人が選んだのは北壁からAフェースを経て前穂高岳に登るというものだった。

 トップを魚津が務めて登攀は順調だった。夕刻になり登攀不可能。二人がやっと並んで座れるほどの小さなの割れ目で一夜を明かす。夜明けとともにトップを小坂で登攀開始。

 アクシデントは前穂頂上目前にやって来た。小坂の叫び声で滑落を知った魚津は、ピッケルを岩の割れ目に強く押し付けて落下するザイルの衝撃に備えた。その衝撃が来ることはなかった。ザイルが切れたのだ。

 小坂や魚津が給料をもらって暇を見つけては山に登るだけの山男ではない。色恋の感情も持っている。特に小坂には八代美那子と一度肌を合わせたことがあって、一途に美那子を求めている。しかし、美那子は一時的な感情でそれはすぐに消えたという。しかも山行きの直前、魚津も同席のときの告白だった。若い時はこの女の心理を理解できないだろうが、歳を重ねるごとに分かってくる。

 傷心を背負った小坂の滑落死は、関係する人々にさまざまな影響を与えて行く。これに強くかかわってくるのが常盤大作だった。八代美那子の夫教之助が常盤大作の提言でザイル強度実験を行う。結果はザイルは切れない。これが小坂か、魚津が切った可能性が指摘される。小坂が切ったなら自殺だし、魚津が切ったなら殺人だ。

 窮地に立たされた魚津だが、それらがはっきりするのは雪解けを待たなくてはならない。その間、八代教之助、美那子、小坂の妹かおる、勿論上司の常盤大作とザイル切断事件めぐって接触が多くなる。

 小坂乙彦の遺体は雪解けを待って十数人の山男や徳沢小屋の人たちの助力を得て、現地で警察官立ち合いのもとに荼毘に付された。遺体には切れたザイルがからまり、遺書の類はなかった。問題はザイルが切れたのか、切られたのかだった。八代教之助の会社で若手の研究者が分析したところ「切れた」のがはっきりする。

 そんな中で、微妙に心の変化が起こるのは、魚津であり、美那子であり、かおるだった。魚津が美那子に対してかなり厳しいと言える言葉を投げかけるが、美那子は逆に心の優しさと受け取る。美那子の夫婦生活は、高齢の夫との間に生まれる年齢差の溝を感じ始める。小坂との一夜の契りは、その前兆だったのかもしれない。

 小坂の妹かおるにとって魚津恭太の存在は、生涯を共に過ごしてもいい段階に達していた。当時の女性には珍しく、かおるが魚津に結婚を申し込む展開になる。

 魚津の心は美那子に傾いているが、人妻とは所詮どうすることも出来ない事柄だった。そんなとき、常盤大作の「八代家には近寄るな。今後一切連絡を絶て!」という厳命は魚津をかおるに向かわせることになる。

 魚津は律義な男であるが、男と女の間には顔を合わせて真意を伝えたい思いもある。かおるの意志を受け入れて、ともに山を登る計画を実行に移す前、魚津は美那子に「静謐で荘厳な氷の岸壁をあなたに見せてあげたいという思いは強いが、今後一切連絡はしません。お会いするのはこれが最後です」

 美那子はこれを愛の告白と理解した。魚津の登山計画は、穂高の上高地から登る涸沢(からさわ)の反対、飛騨側の北穂高岳と奥穂高岳の中間の稜線に突き上げる滝谷の岸壁を単独行で行い、涸沢を経て徳沢園で待っているかおると合流するというもの。

 「魚津はこの単独行を考えている間じゅう、きびしい表情をしていた。徳澤園へ降りて、かおるに顔を合わせるときの自分は、現在の自分とはまったく異なった人間になっている筈であった。なぜなら自分は、人間を変えるために、八代美那子への執着を払い落すために、それ以外の何のためでもない、ただそれだけのために、滝谷の大障壁を登るのである。それ以外、魚津は自分から美那子の幻影を払い落す方法を知らなかった」と著者は登山の意味を述べている。

 7月初旬、魚津は新穂高温泉を早朝に出発した。谷をさかのぼって行くに従い、濃い霧を通して落石の音が聞こえる。徐々にその音が近くなってきて、小石が耳をかすめるようになった。魚津は撤退を考えたが、徳沢園で待つかおると会うことが、美那子の幻影を払しょくする唯一の方法なのを確信し登行を続ける。

 徳沢園で待つかおるのもとに、約束の日に魚津は現れなかった。かおるは涸沢小屋に荷揚げをする歩荷(ぼっか)の人について涸沢まで行く決心をする。魚津は涸沢にも姿を見せていない。もう一つの立ち寄り先、穂高岳山荘(本では穂高小屋と書いてあるところだろう)にも姿がなかった。

 室内では男たちがヘッドランプをつけたり、ザイルを巻いたりして出かける準備の最中だった。かおるは不安に襲われた。夜明けの四時、学生が一人帰って来た。その学生がかおるに手帳を差し出した。

 魚津の字だった。「大落石にあって負傷」「大腿部の出血多量、下半身しびれて苦痛なし」最後に「苦痛全くなし、寒気を感ぜず、静かなり、限りなく静かなり」で終わっていた。魚津が死んだ。残された三人、美那子、かおる、常盤。

 著者は記述する。美那子にとって魚津の死は、「彼によって自分の女としての新しい人生が開けようとした。そのためには、何を犠牲にしてもいいとさえ思った。しかし、それもつかの間のことで、魚津の死が一切を変えてしまった。もう自分には何も残っていないのだ」という思いが去来する。

 かおるにとっては「今でも魚津恭太が自分の方へやってきつつあるという気持ちをどうしても消すことは出来なかった。かおるの心は充実していた。静かに、落ち着いて、自分の方へ来ようとしている魚津恭太を見守っているといったようなところがあった」

 常盤大作にとっては「ばかめが!」という言葉。愛情のこもった「ばかめが!」で折に触れて思い出すであろう。

 この本によって上高地が有名になり人々が訪れるようになったという。上高地は何度も行った私の最も好きな場所だ。今は東京方面から車で行った場合は、通年沢渡の駐車場でデポしてバスで上高地に入らなければならない。かつては夏の登山シーズン以外は上高地の駐車場まで行けた。釜トンネルというトンネル内で傾斜のきつい坂を上って行く。夜中に着いて仮眠、早朝の静かな時間を迎える。良き時代が思い出される。

 徳沢園のホームページには、「氷壁の宿 徳沢園」とある。新緑の頃、その徳澤園までの片道2時間を、歩きやすい靴でぶらぶらと歩いてみたい。

 この小説を読んで、ふさわしい音楽は? この曲ではないだろうか。「アンサー・ミー、マイ・ラヴ/Answer Me, My Love」私の大好きな曲の一つ。もともとはドイツで歌詞が書かれた。1954年2月ナット・キング・コールがベスト・セラーを記録。1990年初めにボブ・ディランもコンサートで取り上げたり、2000年にはジョニ・ミッチェルがアルバム「青春の光と影」に挿入のほか多くの歌手に歌われている。では、ナット・キング・コールでどうぞ!

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