日銀券を増刷して日本国を救う村島定行のBlog

①日本は世界最大の債権国、お金がなければ刷りなさい②英語を多用すると次第に馬鹿になる③靖国参拝は日本人の義務だ。

金文京氏の「漢文と東アジア」への疑問

2010年12月16日 | 日本語

 「訓読の文化圏」あるいは「漢文訓読は日本独自のものではない」などと銘打った金文京氏の本を読んだがおかしな点が満載の本である。
 漢文訓読法が朝鮮やベトナムやその他の国でもあった。そして訓読の文化圏があったといういう主張であるがおかしな点を指摘しよう。その前に訓読みと訓読法の違いを説明しなければならない。先ず訓読みは漢字に大和言葉の読みを与えることである。次に訓読法は漢文を大和言葉の語順で上に行ったり下に行ったりしながら読むことである。
 この本への疑問の第一は訓読みについては殆ど議論せず、訓読法についてだけ議論するところである。訓読みと訓読法は切り離せない。漢文訓読法は奇妙な方法と言われるが訓読みをやっている日本人には漢文訓読法は自然に生まれてくる。訓読みを採用している日本人には漢文の個々の漢字の意味は翻訳する必要がない。あとは文字の順序を入れ替えるだけで日本文になるのである。訓読みをやらない朝鮮やベトナムでは漢文訓読法が生まれようがないのである。
 この本では漢訳仏典の翻訳が訓読法のきっかけであるとして著者の大きな発見であると主張している。この点は最も眉唾なところである。訓読みは4,5世紀には日本で行われており仏教伝来の前である。高天原(たかまがはら)、天津神(あまつかみ)などは訓読みの例である。訓読みを採用すれば訓読法を思いつくのはすぐである。実際仏典でない中国の古典が漢文訓読法で読まれ、仏典やお経は音読みされていることからもおかしいことは明らかである。
 漢文訓読法を思いつくのに大和言葉と梵語との同一性の認識が背景にあったというのは噴飯ものである。訓読みを採用した日本人にとっては漢字は日本語の表意文字である。意味は日本人に自明であるが文章全体の意味は漢字を日本語の語順に入れ換えないとわからない。だから入れ替えて読むだけである。訓読法と梵語とは全く関係がない。僧慈円が梵和同一論を唱えたと言うのは全くの捏造である。慈円は「孔子の教えも大和言葉を離れて、その心を悟らず」と言ったが日本語でないと日本人には通じないと言う意味である。慈円は歴史書愚管抄を漢字かな混じり文で書いたとして知られているがその理由は「漢文では教育の或る日本人でも意味をよく理解できないということと歴史を記述する慈円自身が漢文より漢字かな混じり文の方が迫力をもって記述できるから」である。慈円は「日本人には日本語が一番」という日本語至上主義者といっていい。
  本を読んでいて訓読法に関する議論より訓読みに関する議論の方が重要で、実りが多いのではないだろうかと感じた。訓読みは漢字を自国語の表意文字とすることである。そういう意識のなかった朝鮮、ベトナムでは多くの固有語が漢語に駆逐されて消えてしまい、朝鮮語、ベトナム語の原型があやふやになっている。
 訓読みをしていたか、していなかったか。あるいは訓読法があったかなかった。こういう議論は原型が残っていて初めて正確な議論が可能になる。
 訓読みと訓読法の正確な議論が出来るのは大和言葉の原型がきれいに残っている日本においてだけである。結論として「漢文訓読法は日本独自のものである」というのは変更する必要はない。ただこのことは大したことではない。訓読みがはるかに大きく重要である。日本人は24時間訓読みを使っている。訓読法を利用するのは漢文を読むときだけである。
 訓読みを採用しているのは日本だけである。訓読みの重要性が理解できて初めて日本語が分かったと言えるのである。その意味で著者金文京氏は日本語の書き言葉である漢字かな混じり文の意味を一から勉強し直すべきであろう。

 

 

 


 

 

 

コメント (4)
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