
↑ ジャン・フランソワ・ミレー(フランスの画家)「種まく人] パリ近郊のバルビゾン村の農地の風景です。1850年の作品油彩・麻布 99.7×80.0㎝ 山梨県立美術館収蔵
ミレー「種まく人」1850年 ボストン美術館.収蔵 ミレーは、ほぼ同じ絵を2点描いています。
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日本福音教団 富谷教会週報
降誕節第7主日 2025年2月9日(日) 午後3時~3時50分
礼 拝 順 序
前 奏 辺見トモ子姉
司 会 斎藤 美保姉
讃美歌(21) 220(日かげしずかに)
交読詩篇 86:1-13(主よ、わたしに耳を傾け)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書13章1~17節(新p.24)
説 教「たとえで語るキリスト-種蒔きのたとえ」辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 57(ガリラヤの風かおる丘で)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 2月12日(日) 午後5時~5時50分
聖書 マタイによる福音書5章1~12,17~20節
説教 「教えるキリスト」
讃美歌(21)54 53 24 交読詩編119篇1-16
本日の聖書 マタイによる福音書13章1~17節
13:1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。 3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 9耳のある者は聞きなさい。」
10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
本日の説教
イエスは大勢の群衆に、「天の国」を「種を蒔(ま)く人」のたとえで話されました。それは弟子たちにとって不思議なことでした。彼らは、たとえなど使わず、もっとストレートに話せばよいのにと思ったのです。そこで、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と質問しました。
「たとえ話」は、例(たと)えられているものを少しでも知っていれば、深遠な教えを日常的な素材を用いて平易に語るのですから、一層分かりやすく、それによって理解が進みます。しかし、例えられているものを理解していない場合には、たとえを聞いても何のことか分からず、謎(なぞ)のままになってしまいます。
この種蒔きのたとえも、「天の国」に関する知識がない群衆にとって、理解できない状態にあることを察知した弟子たちは、なぜ謎でしかないたとえをもって話されるのか、と主にたずねたのです。実は、弟子たちにとっても、18節以下のイエスの説明を聞くまでは、群衆と同じく、この「種を蒔く人のたとえ」を理解できなかったのです。イエスの答えは、「弟子であるあなたがたは」、「天の国」の奥義を知ることが許されているが、群衆である「彼ら」はそうでない、と話されました。「天の国」とは、ここでは死んだ後に行く天国のことではありません。神が支配する国であり、今、イエス・キリストを自分の主として受け入れる者たちに与えられる、神の支配です。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)と言われています。
イエスはたとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られませんでした。マタイによる福音書には16のたとえが語られています(7:24-27、13章には7つ、18章には2つ、20:1-16、21章には2つ、22:1-14、25章には2つ、計16)。それは預言者を通して言われたことが実現するためでした。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」(マタイ13:35)とあります。
「隠されていたこと」すなわち「奥義」は、神の啓示なくしては知り得ない真理のことで、ある人には隠されているが、他の人には明らかにされます。それは、イエスがメシアであるという事実、あるいはイエスの到来と共に神の国が実現しつつあるという出来事を指します。
「知ることが許されいる」は、知るということは許されて知るのであり、恵みとして与えられるのです。「天の国」の民は、単に知ることが許されているだけでなく、神の恵みにより、聖霊を通して、体験的に知ることへと導かれるのです。ところが、イエスを取り巻くユダヤ人たちは、次第にイエスを拒否するようになり、イエスを知る恵みから追放されていきました。「あの人たちには許されていないからである」は、彼らがイエスをメシアとして認めない結果なのです。
「持っている人は」ますます富み、「持たない人は」ますます乏しくなる、という社会的・経済的原則は霊的世界にも当てはまります。「持っている者」とは、「天の国」を持っている者のことです。「さらに与えられて」とは、その御国が御国の民にもたらす祝福を指します。「豊かになり」とは、御国の祝福にあふれるばかりにあずかっている状態をいいます。「持たない者」とは、「天の国」を持たない者、つまり神の救いにあずかっていない人を指します。「持っているものまで」とは、御国に対して態度を決定する前に神から与えられていた一般的な祝福のことです。イエスの話を聞いていたユダヤ人にとっては、神の契約の民として昔から受けていた宗教的特権を指します。
群衆はイエスの奇跡を見、イエスの説教も聞きました。イエスがメシアであり、イエスの到来とともに「天の国」が始まったことについては、すでに十分な情報が提供されました。ところがイエスを取り囲んでいる群衆は、イエスを信じようとはせず、イエスの御国も受け入れようとはしませんでした。もしそうであれば、イエスにとっては、もはやなすすべがありません。それでもなお、解き明かす方法があるとすれば、たとえで話すことだけです。たとえで話すなら、再度その問題を考えさせることができるからです。イエスは、改めて、イエスのメシア性や、「天の国」について群衆に考えさせようと迫ったのです。
イエスの時代のユダヤ人は、イエスと「天の国」に関し、見聞きしながら、悟ろうとはしませんでした。紀元前8世紀のイザヤの時代、神に遣わされたイザヤが預言をすることに、人々が理解せず、その言葉を受け入れず、悔い改めようとしない、ということが起る、と神が預言しました。このイザヤ書6:9-10の預言が、イエス時代にもイエスを拒否した人々によって実現したのです。
イザヤ書からの引用文「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず…」(13:14)以下の文章は、内容的には13節の繰り返しです。従って、イエスが引用したのではなく、後になってマタイが挿入した、と考えられます。
群衆は、聞いても悟らず、見ても理解しなかった。なぜなら、「この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」からです。彼らの肉体の耳や目は作動していたが、何の機能も果たしていなかった。心が閉ざされていたからです。彼らがイエスを信じるかどうかは、実際に見聞きする前に、すでに決まっていたのです。
イエスの話を聞いた人々にとって、「心で悟って」、「立ち返る」ことこそ重要でした。「悟る」は、理性で「知る」こと以上の、自らの全存在をもって受け止めることを指します。「立ち返る」は、自分中心であることから回転し、神の方に向きを変えることをいいます。「いやされる」とは、神との関係や罪の赦しを含めた全人格的な回復を指します。彼らが神に立ち返らない結果、神はいやしの祝福を彼らに与えないのです。
しかし、「あなたがた(弟子たち)」は、イエスの御業を見てイエスが御国を支配している現実を知り、その福音を聞いてイエスの統治を確信しました。彼らの目や耳は機能していました。彼らの心がイエスに開かれていたからです。それゆえ彼らは「幸い」でした。
続けてイエスは、弟子たちがなぜ「幸い」なのかを明らかにします。その際イエスは、「はっきり言っておく」(13:17)とこれから話すことの重要性を印象づけます。イエスの弟子たちは、旧約聖書の「多くの預言者」や「義人たち」に比べ、幸いでした。彼らが長い間見たい、聞きたいと願っていたメシアと天の国の到来を、イエスの弟子たちは、現実に見たり、聞いたりしているからです。「あなたがたの見ているもの」とは、イエスがメシアとして現された奇跡のことです。「あなたがたが聞いていること」とは、イエスの御国の福音を指します。イエスの弟子たちは、それを見聞きすることが出来たのですから幸いです。
弟子たち、それは主イエスに招かれ、従っている人たちです。主イエスの近くで主の御言葉を聞いている人々です。弟子たちの時代は今日にまで至ります。主イエスを信じ、教会に連なり、礼拝を守っている私たち信仰者にも、弟子たちに与えられた幸いが、同じように与えられているのです。
主イエスは、誰にでもたとえを語られました。たとえを聞いて、「天の国の秘密」を聞き取れた者が弟子であり、信仰者ということです。「天の国の秘密」を聞き取れるのも、神の恵みにより、聖霊によるものなのです。イエスの教えを聞き、「心で悟って」、「立ち返る」者には、神の豊かな恵みといやしの祝福が与えられるのです。
13章18節から23節までの「たとえ」の説明では、「道端」、「石だらけの所」、「茨の中」、「良い土地」と、種が蒔かれた四つの土地をあげています。
「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」(13:18-19)
神が種を蒔くとき、わたしの心のどの種類の土地であろうか。道端に蒔かれた種の様な人もいます。
「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のための患難や迫害が起こると、すぐにつまづいて人である。」(13:20-21)
「石だらけの所に蒔かれた様な人もいます。
「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」(13:22)
茨の中に蒔かれた様な人もいます。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、有るものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(13:23)
私たちに求められているのは、「良い土地にしてください」と祈り求めることであり、キリストにしっかりしがみついて離れないことです。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、これをきれいになさるのである」(ヨハネ15:1-2)と主は言っています。
主イエスにつながっていることが求められています。農夫である父なる神はわたしたちが実を結ぶことができるように、わたしたちを手入れしてくださるのです。御言葉の種が実を結ぶように、私たちの心の畑も耕してくださり、「良い土地」にしてくださるのです。そして予想をはるかに越える、驚くばかりの実を結ばせてくださるのです。
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