
↑ イエスは、「来なさい。そうすれば分かる。」と彼らに言われた。(ヨハネ1章39節)
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日本福音教団 富谷教会週報
降誕節第3主日 2025年1月12日(日) 午後3時~3時50分
礼 拝 順 序
前 奏 辺見トモ子姉
司 会 齋藤 美保姉
讃美歌(21) 57(ガリラヤの風かおる丘で)
交読詩篇 119:1-16(いかに幸いなことでしょう)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書1章35~51節(新p.164)
説 教 「最初の弟子たち」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 448(お招きに応えました)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 降誕節第四主日
1月19日 午後3時~3時50分
「宣教の開始」マタイによる福音書4章12-17節
讃美歌 4 507 24 詩編44:1-9
本日の聖書 ヨハネによる福音書1章29~34節
1:35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。 43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 47イエスは、ナタエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
本日の説教
ヨハネによる福音書の著者は定かではありませんが、イエスの十二弟子の一人、愛弟子のヨハネの権威の下に発表された書であることは明らかです。それでは、今日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書1章35節以下の弟子の召命の記事を読むことにします。
「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」(1:35~37)」
先週の礼拝では、ヨハネによる福音書の1章29節から34節までの部分についてお話しいたしました。そこでは、洗礼者ヨハネは、イエスが自分の方へ来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と人々にイエスを伝え、「この方こそ神の子である」と証ししました。
その翌日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいました。<その翌日>という言葉が29節にもありました。そしてここ35節と、次に43節でも繰り返して出てきます。これは、三日間続いて起こったことを表しています。
「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。」(1:38~39)
イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、「何を求めているのか」と言われました。彼らが、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。<ラビ>は「先生」という意味で、律法の教師たちに用いられる敬称ですが、弟子たちは特別な尊敬を込めて使っています。
弟子たちが質問した<泊まる>のヘブライ語の原語は「留まる」という意味であり、神がイエスに留まり(14:10〉、イエスは神の愛の留まる(15:10)というように用いられているので、「今夜どこに宿泊するのですか」という表面的な問いと同時に、「あなたは神とどういう関係にあるのですか」という重要な問いを含んでいると解されています。イエスは、<来なさい。そうすれば分かる>と言われました。
そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見ました。そしてその日は、イエスのもとに泊まりました。午後四時ごろのことです。マタイ4:13には、イエスは「湖畔の町カファルナウムに住まわれた」と記しています。
「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。」(1:40~42)
イエスに従った二人のうちの一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレでした。もう一人は名前が記されていません。この匿名の人物は福音書を書いたとされるイエスの愛弟子のヨハネではないかと推測されていますが確かではありません。アンデレは、まず自分の兄弟シモンに会って、<わたしたちはメシアに出会った>言い、シモンをイエスのところに連れて行きました。<メシア>とは「油を注がれた者」という意味を表す語ですが、油は聖霊を指しています。神に聖別された世を救う者のことです。
イエスは彼を見つめて、<あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする>と言われました。<ケファ>は「岩」という意味です。マタイ福音書では、シモンが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしたとき、イエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる」(マタイ1618)と言われ、ペトロという名を与えられています。「岩」という意味のヘブライ語が「ケファ」で、それをギリシア語に訳した言葉が「ペトロ」です。
「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。 44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。」(1:43~44)
その翌日、<イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときにフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」>と言われました。ヨハネによる福音書では、<ガリラヤ>という地名は、エルサレム、ユダヤという地名と対立関係にあります。そこはイエスにとってむしろ敵地です。ガリラヤはイエスにとって安全な地帯、イエス御自身の陣営と考えられるような書き方がなされています。フィリポは、アンデレとペトロが住んでいた町、ベトサイダの町の出身でした。
「フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」(1:45~46)
フィリポはナタナエルに出会って、<わたしたちはモ―セが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それは、ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ>と証言しました。これは旧約で証言されているメシアに出会ったという意味の表現です。すると、ナタナエルは<ナザレから何か良いものが出るだろうか>と、辺境の地ナザレを蔑視しました。フィリポは<来て見なさい>と、イエスによって用いられた言葉をそのまま口にして言いました。
信仰を与えられるためには、イエスの所に行き、実際に自分で見る以外にないのです。イエスの所に留まることによってイエスが何者かが分かるのです。ナタナエルの名は、この記事の部分と、復活の主に出会った記事(21:2)以外に記されていません。ナタナエルの出身地はガリラヤのカナと記されています。マタイによる福音書の12弟子名簿には、ナタナエルの名はなく、「フィリポとバルトロマイ」が組になって記されているので、ナタナエルとバルトロマイは同一人物だろうと見做す説があります。
「イエスは、ナタエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。」(1:47~48)
イエスと弟子たちの出会いの際、イエスの洞察の方が深く、弟子たちがイエスの真相を見させられる前に、イエスはその人の真相を見抜いています。イエスは、ナタナエルが自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われました。<見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。>
ナタナエルを<まことのイスラエル人だ>とイエスが言われたのは、このあと、ナタナエルがイエスを<あなたはイスラエルの王です>と告白することに先んじて、それに呼応するような呼び方をしたのです。
ナタナエルが、<どうしてわたしを知っておられるのですか>と言うと、イエスは答えて、<わたしはあなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た>と言われました。
パレスチナ地方ではいちじくの木はかなり大木に成長します。その日陰でラビたちが弟子たちに教えました。<いちじくの木の下にいるのを見た>とは、ナタナエルが律法を熱心に学んでいる者であることをイエスは見抜いていたのです。
「ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(1:49~51)
ナタナエルはイエスに、<あなたは神の子、イスラエルの王です>と告白するに至りました。<神の子>は伝統的なメシア称号の一つです。ナザレのイエスが神と等しい者だと証言したのです。<イスラエルの王>という表現は、「ユダヤ人の王」と対比的に使われています。「ユダヤ人の王」はイエスの敵対者たちが好んで用いた言い方ですが、<イスラエルの王>はイスラエルを支配する王、ここでは神だと告白したのです。
イエスを「あなたは神の子」ですと呼ぶ信仰告白は、1章1節から18節で明言されたように、<初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった>という意味で、子なる神イエスは被造物ではなく、天地の創造以前から存在していた方であり、神であった方であるということが言われているのです。しかし他方において父なる神と子なる神イエスの関係は、神と対等であるような、もう一人の神であるという理解の仕方を避けるために、ヨハネ福音書では、この後、神の計画、神の意志に御子イエスが従い、完全に一致することにおいてのみ神とイエスが一つであり、神と等しい者であることが示されることになります。
イエスはナタナエルに答えて、<いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる>と言われました。更に言われました。<天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。>すべてを見透しておられるイエスの洞察力に驚嘆し、イエスを信じたナタナエルに、イエスは答えました。<もっと偉大なことをあなたたちは見ることになる>というイエスの言葉は、「神と等しいイエスを見ることになる」ということです。<天が開け>るのは神によって開かれるのです。<神の天使たちが人の子の上に>の「人の子」とは受難によって救いを成就するキリスト」を表しています。
<天使たちが昇り降りする>光景は、ヤコブの夢の故事に基づいたイメージ(心に思い浮かべる情景)が用いられています。天使たちがイエスの上に昇り降りするのを、あなただけではなく、あなたがたは見ることになる、とイエスは言われたのです。ヤコブの見た夢は、創世記28章10~13節に記されています。
ヤコブが見たあの天と地を結ぶ階段(梯子)は主イエスを指し示しています。主イエスはこの地上にこられて救いのみ業を完成してくださいました。そして、復活し、天に上られました。イエスは神から遣わされた方であり、神と等しい神の子なのです。
神の子が地に宿られたことにより、地上のすべての場所が神のおられる場所となりました。神は地上のどこにでも偏在され、支配されておられるのです。私たちが神から最も遠く離れたところにいると思えるようなとき、希望を見いだせないで絶望しているときにも、私たちが弱く貧しく、自信を失っているときも、病の床にあって死の恐怖におびえているときも、主イエスは共にいてくださり、力を与え、望みを与え、祝福してくださるのです。すべての者の望む夢は、キリストがこの世に来られることによって、実現し、現実のものとなったのです。
わたしたちは、「来なさい。そうすれば分かる。」とイエスに招かれているのです。そして、イエスと出会ったとき、イエスが救い主だと分かったとき、神が救いの御業をなしてくださる神であり、わたしをキリストへ、救いへと導いてくださったことを知るのです。そして、弟子たちを救いの御業のためにお用いになったように、わたしたちも「来なさい、そうすれば分かる」と「メシアに出会った」と証しする者とされるのです。
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