日本福音教団富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師

辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週土曜日か、前日の金曜日に掲載いたします。

「神の声を求めるヨブに答える神」 ヨブ記42章1~6節

2020-10-24 01:31:44 | キリスト教

      ↑ レオン・ボナ(1833-1922) フランスの画家 ガリガリに痩せた老人ヨブは「どうしてですか」と苦し気に天を見上げています。見上げるのは神のみ、ヨブを愛される神を思い浮かべる画でもあります。

    主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。 男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。(ヨブ記38章1-3節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

               日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第二十二主日   2020年10月25日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                  礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 219(夕日落ちて)

交読詩編   104(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨブ記42章1~6節(旧p.826)

説  教 「神の声を求めるヨブに答える神」 辺見宗邦牧師  

祈 祷                                             

讃美歌(21) 531(主イエスこそわが望み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                 11月1日(日)午後5時~5時50分

              聖書 マタイによる福音書7章7~12節

                                                  説教題 「求めなさい。そうすれば、与えられる。」

                                                  讃美歌(21) 214 440 27 交読詩篇 27

        本日の聖書 ヨブ記42章1~6節

42:1ヨブは主に答えて言った。 2あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 3「これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。 4「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」 5あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 6それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。

 本日の説教

ヨブ記について,カトリック教会の神父であり、聖書学者の和田幹男氏は次のように記しています。「なぜ人はこの世で苦しみ、悩まなければならないのか。しかもなぜ、何の理由もなく悲惨なことが身に起こることがあるのか。このような人生に、はたして意味などあるのだろうか。この世界そのものが不条理にできていて、正義なる神などいないのではないだろうか。これは、古代イスラエル人のみならず、人がいるところにはどこにもある問題である。ヨブ記はまさにこの問題を正面から取り上げ、解答を求める。」(共同訳旧約聖書注解Ⅱ、ヨブ記の序論)

ヨブと言う人は神を恐れ、悪を避けて生きる正しい人でしたが、サタンの試みを受け、次々と災難に襲われました。略奪隊による被害や二度も天災に遭い、財産も、家畜も、使用人たちも、さらには七人の息子と三人の娘たちも、すべてを失ってしまいました。すべてを失っても、ヨブは神を呪いませんでした。むしろヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:11)と言って、神を非難することもなく、罪を犯しませんでした。むしろヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:21)と言って、神を非難することなく、罪を犯しませんでした。

 さらに、ヨブは頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかり、ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしって苦しみに耐えました。彼の妻は、夫のあわれな姿を見るにしのびなく、「どこまでも純真でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と告げました。ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(2:10)と妻をたしなめました。このようになっても、彼は神を呪いませんでした。 

ここまでが散文で書かれている序文です。この信仰に至る経緯が、3章から、42章6節までの主要部(本文)で、詩文で記されます。

ヨブと親しいエリファズ、ビルダト、ツォファルの三人の友は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来ました。彼らは遠くからヨブを見ると見分けられないほどの姿になっていたので、しばらく茫然とし、嘆きの声をあげました。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていましたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできませんでした。

 7日間経過後に、ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪います。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生れてすぐに息絶えなかったのか」(3:11)、と。ヨブが死を願う独り言を言い始めたことから、三人の友人たちは、次々にヨブを説得します。最初にエリファズが、すべての人には罪があり、それゆえ神の懲こらしめに対して叫びを上げるヨブは誤っていると、ヨブの罪をほのめかします。だが、罪を犯した覚えのないヨブの挑戦的な態度が増していくと、無遠慮なツォファルは「神があなたの罪の一部を見逃していてくださった」とあからさまに言います(11:6)。ヨブは友人たちを批判し、「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ」(13:3)と言います。「罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪やあやまちを示してください」(13:23)と神に訴えます。

 ヨブと三人の友との二回目の議論は、15章から始まります。ヨブは「天にはわたしを弁護してくださう方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(16:19-20)と仲保者キリストを預言するようなことばがあります。ヨブは、「どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ちくだくのか。侮辱はこれで十分だ。」(19:3)と言い、「憐れんでくれ、憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないのか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか。」(19:21-22)と訴えます。ヨブは今わたしたちの想像を絶する苦難と孤独の中にいます。そしてついに、「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」(19:25、)と、彼を滅ぼす神ではなく、彼の正しさ(義)の保証し、彼を贖う神は生きておられ、最後には必ずこの地上に立ってくださることを信じ、待ち望んでいます。

ヨブと三人の友の三回目の議論が22章から始まり、28章まで続きます。ついにエリファズまで「あなたは甚だしく悪を行い、限りもなく不正を行ったのではないか」(22:5)と決めつけます。友人たちはあくまでも正義の神を擁護しようとし、ヨブを裁きます。これらの当てつけや告発に対して、ヨブはますます熱を込めて彼の無実を主張します。「死に至るまで、わたしは潔白を主張する」(27:5)と言います。

友人たちとヨブの議論は決着のつかないまま終わり、ヨブは再び嘆きの独白を始めます29章1節~31章40節)。

ヨブは神を否定してはいません。ヨブにとっての絶望は、近くにいたもう神が、今や遠くにおられ、彼に対して沈黙を続け、み顔を隠しておられることです。「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。」(30:20)ヨブが苦しみの中で格闘しているのは、生ける神との出会いであり、神ご自身の声を聞くことにありました。「ヨブは語り尽くしました。」(31:40b)

さて、もう一人の友人エリフが現れます。彼は、ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので怒り、ヨブに反論できない三人に対しても怒ります(32:3-5)「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない」(33:13)と語り、ヨブの神への問いかけは高ぶりとして非難するのです。この友のヨブに対する攻撃には、信仰者同志の深い同情に欠けています。この友もヨブに対して、神の審(さば)きを語るのです。エリフの語るところは教理的に間違ってはいないが、しかし、ヨブを納得させるものでもありませんでした。今、神に呼び求めても答えられず、神との交わりを断たれたのではないかと苦悶するヨブに対して、彼は一方的に彼の神観を、37章まで長々と述べます。この主張までが、ヨブを苦しめました。

神はこれまで沈黙を続けていましたが、問い続けるヨブを、無視していたわけではありません。今、その全能の力と愛をもってヨブの前に現れます。主は嵐の中からヨブに答えて仰せになります。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」(37:2-3)<経綸>とは、神の計画とその実現の御業をまとめて言う言葉です。これまで、「なぜですか」と神に問い続けたヨブは、逆に神から問われるものとなり、ヨブの側も、腰に帯し覚悟して、神の前に自らの全存在をかけて立つことを求められたのです。

神は天とともに地を造られ、その基を据えた方です。神は、ヨブに向かって、天と地の創造の時、どこにいたのか、それに参与したかと問われるのです。もし知っているなら言え、とせまります。

ヨブの知らない、自然のこと、天体のことの、一つ一つにも神の深いみ旨が及んでおり、すべては創造者である神につながっています。そしてこれらのことは、人間中心にものごとを見ようとする立場に対して、自分を離れて物を見ることの必要性を教えているように思われます。主は仰せになりました。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」(40:2)神に問うてきた者が今や神に問われる者となったのです。人は神からの問いかけによって初めて自らを知り、自らの位置と意味を知るに至るのです。自己中心の世界に生きていた者が、神中心の世界に生きる者に造り変えられるのです。ここに生ける神との交わりが成立するのです。

ヨブは、「わたしは軽々しくものを申しました」と詫び、「もう主張いたしません」(40:4-5)と誓います。ヨブにとって主が直接答えられたことは何にも勝る大きな喜びでした。ヨブはこの主の前にもはや返す言葉はありませんでした。

しかしヨブはまだ悔い改めにまで至っていません。主は再び語ります。「お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。」(40:7-8)ヨブは主に答えて言いました。「あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました、あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:2、5-6)

 

「あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎます。」(ヨブ記42:5)  

ヨブが経験した「神を見た(目で仰ぎ見た)」経験は、ヨブをして創造者である神の絶対性と被造物である人間の卑小さを自覚させました。創造者なる神は全能の神であり、ヨブもそのような神の全能の愛の対象であることを明らかにしました。その意味での神の全能と愛が自分にも向けられていることをヨブは知って、悔い改め、神の全能を承認し、告白し、賛美します。

ヨブは主の語りかけを聞いただけでしたが、彼は「あなたをこの目で仰ぎ見ます」と答えています。ヨブは生ける神の語られるのを聞いて、神を怖れ信じたのです。神が生ける神であるゆえに信じたのです。人は何かの利益が伴っているので信仰するのではないのです。「災い」と「幸せ」を越えて、ひたすら神を礼拝し、より頼むことが、真実の礼拝です。

結びの(42:7-16)散文では、主は、三人の友に仰せになりました。「わたしはお前たちに対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」(42:7)と言い、三人に雄牛と雄羊を七頭、自分のためにいけにえとしてささげよと命じました。友人三人は主が言われたことを実行しました。ヨブは彼らのために祈りました。主はヨブの祈りを受け入れて、ヨブを元の境遇に戻し、さらに財産も二倍にされた外に、娘たちも与えられました。彼は新たなる祝福を得たのです。ヨブは、以前にもまして、繁栄と幸福を得ます。ヨブは長寿を保ち、老いて死にました。ヨブは苦難の中で、神を求めて生き、神と格闘し、ついに神の声を聞き、神信頼にかたく立つことが出来る人生を送ったのです。

ヨブ記は、なぜ正しい者に苦難がのぞむのかという、人間の疑問に対する、物語による一つの解答です。唯一の解答ではりません。人間の罪とその解決に対する重大な問題は答えれていません。

苦難の意味は、罪のない御子の十字架と復活、そして昇天による救いにあずかって、明らかにされることになります。ヨブが仰ぎ見た「天上の弁護者・執成す方」(16:19-20)、地上の「塵に立つ」、罪より「贖う方」(19:26)が御子キリストの来臨による十字架と復活・昇天によって、現実のものとなったのです。「わたしたちすべてのために、御子さえ惜しまず死に渡された方」である神と「神の右に座ってわたしたちのために執成してくださる」(ローマ8:32-34)キリストの愛は、どんな苦難にも勝利させてくださるのです。

 

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