日本福音教団富谷教会 礼拝説教 辺見宗邦牧師

辺見宗邦牧師が富谷教会で行う礼拝説教を随時アップしてまいります。
毎週土曜日か、前日の金曜日に掲載いたします。

「生涯の日を正しく数える」詩編90編1-17節 

2021-10-28 20:33:04 | キリスト教

「主よ、生涯の日を正しく数えるように教えてください。」詩篇90:12

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週  報

聖霊降臨節第24主日  2021年10月31日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)

交読詩編   90(主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編90編1-17節(旧p.929) 

説  教 「生涯の日を正しく数える」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 528(あなたの道を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

                                               次週礼拝 11月7日(日)午後5時~5時50分 

                                              聖 書 イザヤ書40章27-31節

                                             説教題 「主に望みをおく人は新たな力を得る」

                                             讃美歌(21) 132 149  27 交読詩編 103編    

本日の聖書 詩編90編1-17節

90:1【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
2山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。
3あなたは人を塵に返し、「人の子よ、帰れ」と仰せになります。     4(なぜなら)千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。                                                                        5あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。
6朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。
7(なぜなら)あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。
8あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
9(なぜなら)わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。
10人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
11御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれてあなたの憤りをも知ることでしょう。                             12生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
13主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。
14朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。
15あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。
16あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。
17わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにしてください。

  本日の説教

 この詩は、人生のはかなさと、神の永遠を歌った詩として有名です。この詩を読む者は、詩人が教えているように、「自分の生涯の日を正しく数える知恵」を学ぶことが出来ます。

祈り。神の人モーセの詩。

表題には、「祈り。神の人モーセの詩」と書かれているが、その内容は、もっと一般的であり、また個人的なものです。この詩は後代にモーセの作とされたが、それはおそらく創造と堕罪の物語や、モーセの歌と祝福(申命32:33)に似た響きを持つためでしょう。この詩があらわす荘厳と哀愁とは、時代のへだたりと、人種の区別をこえて、生と死の厳粛さを強く人に訴えるものです。神の永遠性を歌うこの力強い歌はイスラエル民族最大の人物モーセの作と考えられたのでしょう。この詩は<祈り>とあるように、表現の形式は詩ですが、しかし、その精神は<祈り>です。

 この詩の構成は、三つの部分から成り立っています。

第一部(1-6節)まず1節で、代々、その民を守られるイスラエルの主を賛美し、2節で、世界が存続する以前からいます創造者としての主、神の永遠性をほめ讃え、主への信頼が語られる二つの節で始まります。それからこの詩は、3―6節で、人の命のはかなさ、人間の無常と、この詩を口にする者達の生涯における災いが神の怒りのみ手の業によるものであることを告白します。

第二部(7-12節)自分たちを死すべき人間に過ぎないと述べることへと、10節まで引き継いで行き、11節で嘆願へと転換し、ただ神を畏れる者のみが、このはかなさと、災いは神の怒りによってもたらされたものであることを知るのだと明言します。それから12節で、神に、知恵の心を与えて生涯の日を正しく数えることができるように教えてくださいと願います。定められた条件下で生きる生活の知恵を求めます。

第三部(13-17節)苦しみと嘆きの時が満足と喜びの時へと転換されることを切望し、み怒りを撤回して、祈る者達を「慈しみ」の内に引き入れてくださることを神に求める一連の願いをもってこの詩は閉じられるのです。

それでは、一節ごとに解説しましょう。

「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。」(1節)

 「主よ」は祈りがささげられる方が神であることを述べます。民の「宿るところ」は、主が備えと守りのうちに民を「保護される場所」です。避難所、隠れ家の意味です。神は世代世代、つまり、全世代を通じて、その民の避けどころであり続けられ、今もそうであられる。

「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。」(2節)

2節以下に述べられていることは、ほとんど神を中心としています。詩人は神の永遠性によって目覚めさせられた畏敬と驚きを表現します。神は永遠から永遠まで、すなわち地が出来る以前から神であり、地がもはやなくなっても神である、という神の永遠性が讃えられています。

「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」(3節)

このことを人間は自分の身体で体験します。人を塵に帰らせるのは神である。神から一言あれば、人間の生命が終わるのに十分です。永遠の神の力に比べ、人間とは何であろうか。塵より生まれ、神の意志に従って塵に返る。ここに古い堕罪物語(罪を犯したアダムとエバが楽園から追われる物語)の伝承の響きが聞こえます。詩人は意図的に、人間存在のもろさを表す言葉を選んでいます。「人の子よ、帰れ」という宣言は、「塵に帰れ」を意味し、人間の死を表します。人間は神に視線を向けて始めて、人間の無常を理解します。逆に言えば、人間が死に視線を向けることによって、神の永遠性と力がいったい何を意味するかが明らかになります。

 「千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」(4節)

 千年という最も大きな時間の区切りを人間個々人は見渡すことさえできないが、神から見れば、過ぎ去れば昨日の如く、当時の人にとって時間の最小単位であった、夜回りの交代時のようです。

 「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます」。(5節)

人生は、神が人を「流れ去らせる」河のようであり、朝起きて思い返してみても何の意味もない眠りのようです。最後に人生はたちまち「姿が変わる」草のようです。

「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。」(6節)

朝(あした)に栄え、夕べに枯れる、と言います。詩人は物ごとをあるがままに、神に照らして見ます。

「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。」(7節)

このような神の前に立たされた人の問題を神の怒りと人の罪から見ます。詩人は神の怒りの前に消え失せ、脅かされると言います。死に直面した人は一番深くそのことを実感するのです。

「あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。」(8節)

 神の怒りの対象である罪は、知られざる、隠れた罪です。しかし「御前に」「御顔の光の中に」とあるのは深い罪認識です。わたしたちはさらに進んで十字架の光の下に罪赦されたことを知る時に、初めて罪の何であるかをも知ることが出来るのであり、この詩はまだこのような所には達していないのです。神の怒りがおもに語られているのはそのためです。罪は赦されて始めてその重さが分かるのであり、神の愛の重さを知って始めて神の怒りの重さを知ることができるのです。

 「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。」(9節)

 9節も神の怒りと人の死の実感を述べています。しかし罪の自覚がそれと結びついていることも否定できません。人生の短さとはかなさを、「ため息」のようだとたとえ、悲観的に判断しています。

「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(10節)

人生は七十年、長くて八十年で終わるのであり、その誇る所はつきつめた所、空しい誇りにすぎず、空しい労苦に過ぎない。嘆いているのは、、苦痛として味わわされている死すべき運命なのです。この実感は詩人が若い人ではなく、年老いた人であることを想像させます。しかしそれにもかかわらず人はいつまでも生きるかのように妄想し、死の現実とその背後にある神の怒りを本当に知らうとはしません。ここに神の永遠と人の間違った永遠の空想との対立があるのです。

「御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれてあなたの憤りをも知ることでしょう。」(11節)

 「神を畏れ敬うにつれて」は、神の道に従って生命の行くべき道筋を理解させ、神のみ心に沿う生活を整えさせる、神のいと高き神性のみ前での「畏怖」と「畏敬」のことです。主を畏れることによってのみ、現実の神の怒りのみ力を理解することが出来るのです。もし主を畏れないならば、神のみ怒りを免れ得ない自分達の状態を真剣に見据えないことになる、と警告し、教示しているのです。詩人は、自分の言葉を通じて、神に視線を向けるとき立ち現れる事実の力強さを語り、人間の罪と悲観的人生論との関係を神からの展望の下に明らかにしようとします。

 「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」(12節)

 「生涯の日を正しく数える」というのは、生涯の日を神の意志の実現のためにあてはめ、用いることです。もし、短い一生であっても、神の聖なる支配に進んで服し、その御業に自分の生命を打ち込むとき、たとえに十年三十年の若い生涯であっても、そこには実に無限の長さを感じさせるものです。人の一生は、時間の長短によって価値づけられるのではなく、その生き方のいかんによって意味づけられます。それゆえ、昔の詩人が、知恵の心を得させ給え、と祈った祈りは、今日のわれわれによっても同じように捧げられなければなりません。

「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」(13節)

詩人はこの歌の最後の場面で、もう一度、神が彼のもとに来て、その御怒りを恵みに変えてくださるように祈っています。「主よ、帰って来てください」の「帰る」は、人に死を命じられた神のみ心の転換を求める会衆の願いで用いられています。主は審判の神であるが、同時に恩恵と愛の神であるゆえに、永久にその怒りをいだくことはない。いつかは、必ずその怒りを和らげる時が来る。詩人の「いつまで捨てておかれるんですか」とは、詩人の信仰の忍耐を意味する語です。これは、敬虔な者の苦悩がどんなに激しいかを表しています。詩人は「あなたのしもべらを力づけてください」と嘆願する。

 「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。」(14節)

 「朝には」は、主の怒りのゆえに悲しんでいたが(5-6節)、ここでは「願い」として用いられます。朝には、主の慈愛に満ち足らせて、生涯、喜びの声をあげ、喜び祝わせてください、と嘆願します。

 「あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください。(15節)

神は、さきに詩人を、その罪のゆえに苦しめられた。その苦難に遭わされた長い年月を思って、わたしたちに喜びを返してください、と嘆願する。主は、決して冷酷な神ではない。受けた苦しみと悩みに倍する喜びと楽しみを与えてくださる方なのです。

「あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。」(16節)

「あなたの御業」は救いの業。「あなたの威光」はイスラエルの救いによってあらわされた神の栄光です。詩人は彼の生涯において、神の御業を彼自身に明らかにされ、その栄光が彼の子等に現れることを心からの願いとして祈ったのです。神が審きにおいて神の恵みの意志が見える形をとり、実際に働くよう、そしてそのことにおいて神のとらえがたい栄光が現在の世と来るべき世とに対して啓示されるよう、神に祈ったのです。こうして本来はみすぼらしい人生も、永遠の輝きと最終的な不変の意味とを獲得します。

わたしたちの神、主の喜びがわたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにしてください。」(17節)

み怒りの下で過ごした「全ての日々・・・年月」が「わたしたちの神、主の喜び」の下で過ごす「日々・・・年月」(15節)に変わることを切望しているのです。空虚に代えて満ち足りる時、労苦と災いの代わりに喜びの時を求めるのです。それは、彼ら自身の手の働きが確かなものとされる時なのです。

詩人は「手の働き」を確かなものにしてください、繰り返し祈願して、この詩を結んでいます。「手の働きを確かなものとする」とは、日々の業が成就し栄えるようにとの祈りです。まだ来世の生命の希望を持たないこの詩の作者にとっての祈りは、イスラエルの回復によって現世における人民の幸福繁栄が与えられ、喜び楽しむことであったのです。イザヤ書26:12には、「わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなた(主)です」とあります。キリストの使徒パウロは、わたしたちの手の働きを、「主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(コリント一15:58)と述べています。

教会は13-17節にある「願い」をイエス・キリストにおける神の啓示の光に照らして読みます。キリストによる救いは神のみ手の業によるものであり、わたしたちの生死を支配している神の摂理は、み怒りからみ恵みへと変えられる出来事だったのです。キリストに結ばれているキリスト者は、生にふりかかる災いを、神の裁きや怒りによるものではなく、「懲らしめ」や「鍛錬」として、またキリストの苦しみにあずかる者としてくださいました。キリスト者は、彼らの罪に対する裁きがイエス・キリストに下され、義とされ、主に愛していただいていることに信頼し、「どんな被造物もキリストによって示された神の愛から引き離すことはできにない」(ローマ8:39)ことを信じて死に直面するのです。

讃美歌21のアイザック・ウォッツの141番(讃美歌88番)は、この詩の持つ慰めを歌います。「主よ、わが助けよ、いつの世にも、嵐の中なる、わが隠れ家」と、神を賛美します。2節は、「ただ強きみ手に支えられて、みつばさのかげに、宿るわれら」と歌います。 

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