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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節10主日 2024年7月21日(日)午後3時~3時50分
礼 拝 順 序
前 奏 辺見トモ子姉
司 会 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 56(主よ、いのちのパンをさき)
交読詩篇 68:1-11(神は立ち上がり、敵を散らされる)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙14章10-23節(新p.294)
説 教 「義と平和と喜びに生きよう」 辺見宗邦牧師
祈 祷
聖餐式(21) 81(主の食卓を囲み)
讃美歌(21) 402(いともとうとき)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019
(牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。
次週礼拝 7月28日(日)午後3時~3時50分
聖 書 コリントの信徒への手紙一11章23~29節
説教題 「聖餐」
讃美歌(21)411 78 27 詩編 78
本日の聖書 ローマの信徒への手紙14章10-23節
14:10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 11こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」 12それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。 13従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。 14それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。 15あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。 16ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。 17神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。 18このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 19だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。 20食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。 21肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。 22あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 23疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
本日の説教
ローマの信徒へ宛てた使徒パウロの手紙は、第1章から8章で、神の力・神の義としての福音とは何かを述べ、第9章から11章で、イスラエルと全人類の救いとしての福音とは何かを説いたパウロは、12章と13章では、キリストに属する者がこの世でどのように歩むべきかを説く、一般的な勧告です。14章1節から15章13節までは具体的問題に対する勧告です。
14章1-12節の小見出しは、「兄弟を裁いてはならない」とあります。パウロは、信仰の強い人たちに対し、<信仰の弱い人>を受け入れなさいと勧めています。<信仰の強い人>とは、<何を食べてもよい>、<すべてのことが許されている>(Ⅰコリント6:12)と主張する人達です。<信仰の弱い人>とは、野菜だけ食べ、<特定の日を重んじる人>達です。
それは当時、他の神々、偶像の神々の神殿に備えられた肉が市場で食肉として売られていたという事情があり、唯一の神のみを信じるユダヤ人たちにとっては、偶像に供えられた肉は汚れたものであり、食べてはならないものだった、ということが背景にあります。<信仰の弱い人>は、自分の従来からの生活信条や、昔からの掟に囚われてそこから自由になることのできない人です。
「何を食べてもよいと信じている人」というのは、主イエス・キリストの実現してくださった救いによって、そのような食べ物に関する掟はもう意味を失った、と考えている人です。
<信仰の弱い人>を<受け入れなさい>というパウロの勧告は、単にその人たちを配慮し、教え導きなさいということではなく、その人たちの生活習慣に根ざす信念を理解せずに、その人たちをさばき、切り捨ててはならないということです。
4節では、ローマの奴隷制度に言及して、人を裁くのは、よその家の僕を裁くのと同じである、と言います。この比喩は、一般的な奴隷―主人の関係から、教会の主キリストとその僕である信仰者の関係へと移行され、<召し使い>同士がお互いにお節介を焼く必要のないこと、<召し使いが立つのも倒れるのも、その主人による>ことが指摘されます。そのように信仰者の行為と生活についても、主キリストがその人を立たせるし、立たせることができると言います。主は、弱い者をも、否、弱い者をこそ、立たせるからです。互いの争いや裁きあいは、主に対する罪であり、不信であるということです。
次に、5節では日の問題に入って行きます。<特定の日を重んじる人>とは、悪霊などによる影響を恐れて、日の良し悪しにこだわる人々や、安息日やユダヤ教の祝祭日を守るユダヤ人キリスト教徒のことを言っているようですが、パウロは、彼らの態度の良し悪しを問わずに、彼らが<主のため>にそのようにしていると解釈しています。また、他の人は<すべての日を同じように>考えています。それに対するパウロの立場は、各自がそれぞれの心の中で確信をもっておるべきであるというのです。日を重んじるか、重んじないかということよりも、それを主のためにするかしないかが問題だというのです。その点は、食べるのも同様であって、食べるのも主のために食べるのであり、食べないのも主のために食べないのでなければならない。つまり確信をもって、主のためにどちらかを選ぶことが大切なのだと言っています。それは自己を制御して生きる者も、自由に生きる者も共に、<主のために>そうするのであって、どちらも食事の際に<神に感謝>することから明らかであるとします。
この基本的態度が、7-9節で展開されます。信仰者にとって生きるのは、主キリストのためであり、死ぬのも<主のため>であると言っています。<主のため>なら死んでも良いという表現です。パウロにとって、死はたんなる終わりではなく、天にある主イエス・キリストのもとに行くことでした(フィリピ1:21)。8節に「だから…わたしたちは主のものなのである」とあります。わたしたちは主キリストに属するものであり、キリストのものだという自覚です。なぜ主のもの、主に属するものといえるかですが、それに対してパウロはキリストは死者と生者との主となるために死んで生き返られたからだと答えています。死んで生き返ったということは、キリストの十字架と復活を意味しています。キリストは復活したことによって、父なる神の右に座し、全権を委ねられて、世界の主として立てられたのです。それ故に、主イエスを信じるものは、主のもの、主に属するものとなるのです。主イエスを信じるものは、主イエスの復活の命にあずかるのです。キリストを信じるものは、聖霊を与えられることによって、この世にあってすでに終末の栄光にあずかっているのです。
ここからが今日の聖書の箇所です。
10節では、再び<兄弟を裁き>、<兄弟を侮る>のは、自分の判断が他の人間の判断する基準であると主張することなのだと諭します。しかし、神こそがすべての判断の基準なのです。自分の判断を基準とする者は、自分を裁判官の席に座らせることになります。しかし実際は、自分たちこそ<神の裁きの座に立つ>のです。
11節の、「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」は、イザヤ書45:23と49:18からの引用による礼拝における「歓呼」です。互いに受け入れ、裁き合ってはならないという勧告は、神こそが裁き主であるという賛美となります。
12節では、最後に、パウロは短く、信仰者は個々人で神の前で申し開きをすべきこと、自分の生活態度に関して自ら責任を取るべきことを付け加えます。目を向けるべきは、他人の態度についてどう判断するかではなく、神の判断の前に立たされる自分自身の姿をかえりみながら、全責任を負って、善く考え判断し行動せよ、という勧めです。
他人の言動をあれこれ言う以前に、みずからの言動について、愛の配慮に基づいているか、あなたのならわしに従って歩ませようとするなら、彼は自分の良心にそむき、それが原因となって挫折するかも知れない結果にならないかどうかを吟味すべきです。それでは反対に、信仰の強い者の自由が束縛されるではないか、という問いが出てきます。パウロはそれに対して、キリストは自由を放棄する以上のことをあえてなされた。キリストは信仰の弱い人のためにも死んでくださった。このことをしっかり心に銘記してほしい、とパウロは勧めています(14:15)。そのうえで、各自は自分の心の確信に基づいて自由に生きるべきなのです。
ここには、やはりパウロが、ローマ教会をつまらない事で波風を立たせず、穏便に治め、教会の一致を守って行こうとする姿勢がよくあらわれています。教会の中で信仰の中心にかかわることでなければ、こうでなければならないという人と、そのような固定観念にとらわれない人とが相互に認め合っていくべきであるというのです。
13節―23節の小見出しは、「兄弟を罪に誘ってはならない」とあります。パウロは、<信仰の弱い人>に対するこれまでの議論に<もう互いに裁き合わないようにしよう>と結論を下して、具体的な教会内の交わりの問題を展開します。一方で、「すべては許されているのだから何を食べてもよい」と、自由と真の知識の所有を自認する者たちが、その自由と知識をもって「弱い者」につまずきを与え、他方では、旧来の生活習慣と考え方を絶対視して「強い者」の自由と知識を非難します。このような対立状態は、神の恵みの豊かさの下に生きる信仰者の態度ではありません。したがって、このような<つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心>するよう、パウロは勧めます。パウロは、<それ自体汚れたものは何もない>(14節)と断定し、それは個人的・主観的なものであると言います。<汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたもの>(14節)なのだと、個人の主観的判断には踏み入りません。「強いもの」の確信と言えども<弱いもの>の信念を侵すことは許されません。<あなたの食べ物のことで兄弟が心を痛めるならば>とは、「強い者」につられて偶像への供え物を食べ、自分が禁を犯して汚れてしまったのではないかと悩んだり、逆に偶像礼拝の影響を受けたりして信仰生活が分裂してしまうことを言っています。「強い者」がそのような心の痛みを理解せず、信仰が弱いための自業自得であると見捨てるような態度は<愛に従って歩んでい>るとは言えません。なぜなら、キリストはこの弱い<兄弟のために死んでくださった>のだからです。したがって、パウロは<あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようしなさい>(16節)と勧告します。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」<神の国>は、神が直接支配する、終末後に成立する時代ですが、パウロにとっては、今やまさに宇宙的規模で実現されようとしているキリストの支配を意味します。神の国は「飲み食いではなく」、<聖霊によって与えられる義と平和と喜び>であると語ります。キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます(18節)。だから平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか、勧告します(19節)。
パウロは再度<食べ物>の問題に戻り、<すべては清い>と断言します。しかし、この清いはずの食べ物が<食べて人を罪に誘う者には悪い物とな>ると言います。人をつまずかせる種となるものが悪なのです。
そして、パウロは「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」(21節)と言います。その判断の善し悪しの基準は、他人をつまずかせないことです。他人をつまずかせることは、自分の信念を無理強いすることから起こります。
各人は、自分の信念に忠実に、確信を持って行動すべきです。他人の行動に気を取られて、動揺したり軽蔑したりすることは正しくありません。確信のない行動は信仰者のとるべき態度ではありません。
主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)と言われました。「永遠の命に至る食べ物」とは、「天から降って来た生きたパン」であるイエス・キリストのことです。イエスの肉と血にあずかる聖餐にあずかるとき、わたしたちは罪の赦しを受け、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」を与えられ、「神の国」、神の支配のもとに生きる者とされるのです。
「義」とは、「主イエス・キリストの十字架の死による贖い、つまり罪の赦しによって神から無償で与えられた義です。飲み食いのことで自己主張をするのは、神の義によってではなく、自分の義、自分の正しさによって生きようとすることです。「平和」とは、神との間の平和です。信仰によって義とされたことによって私たちは、神との間に平和を得ているのです。神との間が平和であるとは、神の愛が心に注がれており、苦しみの中でも希望を失わずに忍耐して生きる力を与えられるのです。この平和が対立している者同士にも与えられるのです。「喜び」は、神の恵みによって義とされ、神との間に平和を与えられた者は、喜びに満たされるのです。「義」、「平和」、「喜び」を与えてくださるのは、イエス様から送られる聖霊によって与えられるのです。
このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」とパウロは勧めます。
わたしたちが守るべきことはキリストによって救われるという福音であり、互いに愛し合うという新しい律法です。教会の交わりにおいて大切なのは、その自由さ、多様さを互いに尊ぶことですが、何にもとらわれず自由に生きることのできる信仰の強い者は、弱い者につまづきを与えないように、自己を制御することが求められるのです。そうするとき、教会は、聖霊による一致を保って、キリストの栄光を現わすことができるのです。
教会が信仰の一致の下に、良い共同体を築くためには、間違った考え方や行いに対する批判や忠告、場合によっては叱責も必要です。批判や忠告をすべき時に、事を荒立てたくないからと黙ってほったからしにしておくことは、相手を本当に愛することにはなりません。人間には罪があり弱さがありますから、間違いに陥ることがあります。そんな時にはお互いに忠告し合い、悔い改めがそこに起こることが大切です。批判や忠告は、軽蔑したり裁いたりすることのない、相手を受け入れる思いの中でなされなければなりません。それには聖霊の助けが必要です。私たちの自己主張は、たとえそれが内容的に正しくても、相手を破壊し、交わりを壊していくものです。お互いを建て上げていくような建設的な働きは、聖霊によって与えられる義と平和と喜びの中でこそなされるのです。
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