富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神殿から商人を追い出す」マタイによる福音書21章12~16節

2025-01-28 19:07:51 | キリスト教

   スペインの画家、エル・グレコ(1541~1614)の作品               「キリスト、神殿から両替人を追い出す」1570年作                     米国、ミネアポリス芸術ホール収蔵

 〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 

TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富谷教会週報

 降誕節第6主日 2025年2月2日(日) 午後3時~3時50分      

礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                斎藤 美保姉

讃美歌(21) 214(わが魂のひかり)  

交読詩篇  119:1-24(いかに幸いなことでしょう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書21章12~16節(新p.40)

説 教  「神殿から商人を追い出す」 辺見宗邦牧師

祈 祷    

讃美歌(21) 309(あがないの主に)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

    次週礼拝 降誕節第7主日

   2月9日 午後3時~3時50分

   マタイによる福音書13章10-17

   「たとえで語るキリスト」

   讃美歌 220 57 27 詩編86:11-13

  本日の聖書 マタイによる福音書21章12~16節

 12それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。13そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」14境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。15他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、16イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた 。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

  本日の説教

 マタイによる福音書21章1節からは、主イエスが最後の一週間を過ごすエルサレムへの入場の場面から始まります。イエスはゼカリア書の預言する姿で、ろばに乗ってメシア的王として入場します。大勢の群衆は「ダビデの子にホサナ」と言ってイエスを迎えました。「ホサナ」は「救いたまえ」という意味の語ですが、当時はその文字通りの意味はではなく、「バンザイ」のような、ほめたたえる叫びとして用いられていました。民衆はイエスをメシアとして喜び迎えたのです。

 しかし後になって、民衆のホサナの叫びが表面的でしかなかったことを知ることになります。イエスを歓迎すべきであったエルサレムの民衆は、ヘロデ王に加担し、その柔和な王を拒絶し、イエスを十字架につけることに賛同したのです。

 エルサレムに入場したイエスは、そのまま神殿へ進みますが、マルコ福音書では神殿での事件は翌日のこととしています(マルコ11:11、12、15)。

 本日の聖書の箇所は、主イエスが神殿の境内に入ったところで、売り買いをしていた人々を追い出した出来事が記されています。その場所は神殿境内の「異邦人の庭」といわれる区域と思われます。

 当時の神殿はヘロデ大王によって建設された壮麗な神殿です。その神殿の境内の一番外側は「異邦人の庭」と呼ばれれいる広い庭で、異邦人たちはこの庭に入ることが許され、ここで主なる神様を礼拝していました。

 主イエスがその異邦人の庭で見たのは、礼拝のために来る人々を相手に様々な品物を売っている商人たちや両替人たちでした。また彼らから犠牲の品物を買っている巡礼者たちでした。過越祭が間近にせまっている時でしたから、神殿内には多くの人たちがいたことが予想されます。ユダヤ国外からやって来た人々はもちろん、エルサレムの近郊からの人々もいて、多くの人が神殿で用いる犠牲の動物を買い求めました。犠牲の動物は羊、やぎ、はとでした。神殿でささげる犠牲の動物は、ささげ物にふさわしいかどうか祭司に調べてもらわなければなりませんでした。そこで、あらかじめ調べられた動物が神殿の境内で売られていたので、それを買う方が手軽だったのです。鳩は貧しい者の捧げ物として用いられました。神殿の祭司たちも、商人たちも、これによって収益を得ていました。また二十歳以上のユダヤ人は神殿税(一人、年間半シュケル=約1万円)を納めなければならなかったので、日常には通用していないシュケル貨幣(銀貨)にするために、両替が必要でした。

 異邦人にとって礼拝の場である境内で、ユダヤ人の礼拝のための商売がなされていたのです。イエスはこの光景を見て怒り、彼らを追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。神殿の領域は広大なので、イエスの劇的な行動は、その範囲がきわめて限定された、象徴的行動であったと思われます。ヨハネによる福音書には、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」(ヨハネ2:16)とあるように、神殿という聖なる領域に市場が存在していたことだけで、イエスの怒りが引き起こされたことを示唆しています。主イエスの乱暴とも思える行動の動機は、神殿礼拝を否定するのではなく、神殿を浄化するためでした。

 主イエスは、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」と言われました。この主イエスのお言葉は旧約聖書の預言書の言葉から取られています。1つはイザヤ書の第56章7節の「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という言葉です。もう1つはエレミヤ書の第7章11節の「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目には強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」という言葉です。

 イザヤ書には、神殿は「すべての民の祈りの家」であることが言われています。ユダヤ人だけではなく、異邦人のための家でもあるのです。神の御子イエスは、神殿を「わたしの家」と呼び、この神殿を、万民のための神聖な礼拝の場所にしようとされたのです。

 エレミヤの言葉は、神殿の門に立って語られた言葉です。主を礼拝するために、神殿の門を入っていくユダの人々が、あらゆる忌むべきことをしながら平気で神殿に来るのを皮肉り、「神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか」と語ったのです。預言者エレミヤは当時の人々の礼拝に厳しい警告を与えました。エレミヤのこの句は、強盗の略奪の場所ではなく、彼らがその略奪品を運びこんで自分たちの身の安全を感じる隠れ家に言及しているのです。従って、主イエスが「あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われたエレミヤ書への言及は、礼拝する者たちによって神殿が世俗化されていることを市場が象徴している、ということを示唆しているのです。イエスを怒らせたのは、彼らの商売業務ではなく、その場所だからであり、イエスはイスラエルに対する神の審判が、古い神殿の破壊を含むことを、この行為によって暗示されたのです。

 神殿におけるメシアの行動は、否定的であるだけでなく積極的でもあります。境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされました。

 イエスは聖なる場所を誤って使用していることに公的に抗議した後に、目の見えない人や足の不自由な人たちをいやされました。体の不自由な人は神殿内部には入れないことになっていました(サムエル記下5:8、レビ記21:17)。この主イエスのいやしは、このような人々が神殿礼拝に完全に参加することができるようにされたのだというのではありません。このような人々もまた、異邦人の庭で主イエスに出会い、神殿をわたしの家と言われるメシアにいやされ、神の名によって来られた方を拝することができたのです。

 主イエスのなされた不思議な業を見た祭司長たちや、律法学者たちは、境内で、子供たちまでが、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを聞いて腹を立てました。彼らは神殿の最高責任者であり、民の信仰の指導者です。そして主イエスに、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」と言いました。律法学者、祭司長にとって主イエスのことを「ダビデの子」などと言ってほめたたえることは、神様への冒涜としか思えなかったのです。

 主イエスは彼らの言葉に対して「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた(詩編8:3)』という言葉をまだ読んだことがないのか。」と言われました。このお言葉によって示されているのは、子供たちが主イエスをほめたたえているのは、神がその賛美を歌わせているのだ、と言われたのです。

 イエスは、古い神殿を強盗の巣として非難されたが、それにもかかわらず神殿は、イエスがそこにおられることで、目の不自由な人々が再び見えるようになり、足の不自由な人々が十分な強さを回復する場所となったのです。「神の子、メシア」(マタイ26:63)であるイエスこそ、神殿で礼拝されるべき方です。ここにこれまでの神殿とは違う新しい神殿が示されたのです。

 ヘロデ大王のよって補修されたエルサレム神殿は、78年後のA.D.70年にローマ帝国のティトゥスによって破壊されました。主イエスは、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩れずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(ルカ21:6)と神殿の崩壊を予告しました。エルサレム神殿から開始された建築の働きは、一つの民族の枠を超えて、地のはてまでも神の国を建設する計画となり、キリストの体である教会に引き継がれたのです。神の住まわれる神殿について、使徒パウロは次のように言っています。

 「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソの信徒へに手紙2:19~22)

   神の神殿であるのは、「あなたがた」つまり信仰者の群れである教会です。「二人または三人がわたし(主イエス)の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」 (マタイによる福音書 18章20節)とあるように、信仰者の集まるところが教会です。同時に、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です。」(コリント一、6:19)とあるように、教会を形成する個々人の体も聖霊が宿ってくださる神殿とされているのです。

 神の神殿である教会も、また個々の信徒も、世俗主義に侵されないようにしなければなりません。また、聖霊によって私たち自身が造り変えられていくことが大切なのであり、神に対する信仰を、自分本位の安心感の拠り所としないように注意しなければなりません。

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