無名人独白集

美しいもの、麗しいもの大好き。その真逆は嫌い。
故に「小異に拘り、大道を外す事勿れ」
そんな我侭で偏屈な人の独り言。

ある小春日和の昼下がり。

2009年11月27日 22時07分25秒 | 教育、歴史、道徳に関わる話し
ある公園での風景。

小春日和の温かな昼過ぎ、
公園の落ち葉かきを、近くの公立中学校の生徒達が先生引率のもと行っていました。

正確には、行っていると思われました。というべきでしょうか。


なぜならば、引率の教師の一部は黙々と箒を振るい続けているのですが、
残りの女教師を含む数名は、生徒たちとまるで友達のやうに「キャッキャ」と話しており、

肝心の生徒達は、ある男子学生達は、他の未就学児童の遊ぶ横で箒を振り回しあい、
ある女子学生達は、まるで何のために今自分達が公園に居るのかを全く忘却したかのごとくに、
一心不乱に話に興じておるのですから。

傍から見たら、何の集まりかわかりゃしません。

なぜ校外活動だと私が判ったかと云えば、
彼らの学校名が堂々と入ったおそろいのジャージを着ていたからに他なりません。

一部の生徒は、確かに真面目に箒を振るっているのです。
しかし、その横で少し集まった落ち葉に群がった生徒達が塵取りを使うのですが、
その目的は、ビニール袋に落ち葉を詰める為。
手で詰め込む方がはるかに速いのでしょうが、彼女らにとっては絶対に考えつかぬ様子で、
騒ぎながら塵取りを使うのです。

当然、学校用の箱型塵取りが役に立つ訳もなく、
さらに、意地でも落ち葉などと云う不潔なものに触りたくない女学生は、
少量の落ち葉に、まるでショベルカーのバケットのやうに突き立てるのですから、
拾える量より、周りに散らかす方が多い有様。



子供たちだけなら、
遊び半分のお手伝いをやっている子供たちだけなら、ある意味ほほえましい光景ではあります。


しかし、そこに大人が混じっている事実を認識してみると、
おぞましい色の霧がその集団を覆っているやうに私には見えたのです。





あの教師達は、何を子供たちに教えたいのだろうか?
ただ、定められた校外活動であるがゆえに、ただ処理していただけなのか?


ボランティアや地域活動と云うものを、
生徒に理解させるためのカリキュラムであろう、こう云った活動を見るにつけ、
私には、今の学校の価値が皆目理解できないのです。

ただ、勉学だけをするのであれば、自宅学習と学力模試の組み合わせで、
平均以上の高校進学も出来る世の中で、
学校と云うものの根幹的存在価値は、
集団生活における規律と規範、共同活動とそれに関わる協調性を学ぶ場としてではないのでしょうか?



あの教師達は、生徒に何を教えられるのだろう?

それともあの校外活動は、
個人の自由のみが至上のものだから、世の中、自分の好きな事を勝手にやっていればよい。
という教育活動だったのですかね?
コメント (2)
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