思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記



久しぶりに掃除機をかけました............................................................

今までの掃除方法というのは

「如何にモノをStockし、それを綺麗に並べるか」

という感じでやっていたのですがね。
今回の掃除は半年前の自分自身からは考えられないほどモノを捨てることが出来るように成りました。
「モノを捨てられない」と言うのは鬱病や精神病患者の傾向の一つで病気の一つの症状と言われています。
確かなこととしては「執着心」は健康な人でもありますし、Collectorはこれが趣味なわけでしてそれが生活の中心になってしまています。
これも依存症の一つといえばそうなのですが、趣味と病気というのは紙一重というよりそのものと言ってもいいぐらいかと思われます。
それが生活の中心であろうと社会的な生活に影響するかどうかが争点となるでしょう。
生活に影響を与え甚大で支障をきたすならば病気、そこまでいかないものは趣味とされるわけです。

おいらの場合はこういった傾向を知らずにたくさんのものを部屋の中に蓄えてしまう。
そして、「これらが失われるともしもの時にどうにかなってしまうのではないか」という思考になってしまっているというのは病気の要因としては十分なものだと思われます。
よくよく考えるとわかるとおもうのですが、化粧箱などをStockするというのは転売したり、使わなくなった際には高くは売れますが、おいらのようにとことんまで使う人間の場合はゴミ以外の何者でも無いということを理解すると楽になります。

ところでNEWSなどを見ていると

「ゴミを捨てられない」

という人は老若男女問わず多くの人間が抱える問題のようです。
かく言うおいらもその一人なのですがね。
「必要なモノ」と「塵」との線引きは非常に難しいモノです。
これはおいら自身の経験から書きますが、論理的に考えなければならないと言い切れます。
自分自身が納得出来ないとそれは必要なものであり続け、何時まで経っても捨てられないんですよね。
しかしモノをずっと保有し続けることが出来るほど部屋や家が大きい人は良いのでしょうけど、どのような豪邸であっても限界があります。

人の買い物の傾向として資産は関係ないように思います。
金があれば広い家を購入したり、借りたりしますがね。
金があるのですから、それだけ買い物をする量も多いということを考えると広くても駄目なんですよ。
逆に金がないおいらのような人間の場合は狭い家や部屋に見合った量の買いモノしかしないということが言えるわけです。
「ゴミ屋敷を掃除しに行く」という番組の企画などが昔ありましたがね。
あれは根本的に人間そのものを矯正しなければ塵を全て取り除いても結局は「ゴミ屋敷に逆戻り」というのは確定しているわけですよ。
部屋のモノを最小限にしている方たちを見ているとおいらには別世界なのだと信じて疑いませんでした。
どちらかというとゴミ屋敷に住んでおられる方たちの方がおいらは感情移入が出来るでしょう。
「金がない」人間にとってはどれだけ無駄であろうと、塵であろうと身の回りにあるものが「保険」になるわけです。
それが自分の購入したものではなくても、他人が捨てるものでもです。
またLife Styleが違う人間が捨てて自分が使わないものであろうとそれをStockしておくことによって

「何れは使う日が来る」

という思考が出来上がってしまっています。
これは今の自分自身にも言えるのですがね。
まだまだ捨てられないCategoryにわけられる自分自身からすると自分を分析して最小限に済ませている人たちを見ているとすごいな~と思います。
ここ3ヶ月ぐらいで取り組めるようになったのは自分が着ない服を処分することでした。
今までは

「これは服が足りなくなったら着るかもしれない」

とか

「貰ったモノを捨てるのは失礼だ」

とか考えていたのですが、よくよく考えると貰うものというのは「所有者が捨てるモノ」な訳ですよ。
そのようなモノを「捨てるのが失礼」だという思考にはかなりの問題があります。
人から譲ってもらったモノでRegularとして着用している服というのはおいらは殆どありません。
自分で購入したものというのはブレることがありませんがね。
家族でもStyleが大きく異なるのですから、他人から貰うものというのは合致することの方が珍しいでしょう。

人間は「調和を保つ」ということを過小評価しがちですがね。

一つのIrregularが大局的に見て大きな歪みを産むことが多々あります。
これは些細なことほど大きく影響するようにも思いますね。
特に衣食住で「よく用いるモノ」に自分のStyleと合致しないものを一つでも入れてしまうと大きな違和感が発生して精神的健康を損なうことが少なくないでしょう。
生活の中での変化は必ず生じますし、自分の成長の度合いに応じて変化をしていかねばなりませんが幾つも一度に変化させるというのは一気に具合が悪くなるでしょう。
自分自身が納得して所有し、快適に使っているならば尚更そこに他人が使っているモノをとりいれるというのは大きな違和感が発生します。
快適ではなくとも納得して使っているモノも場合も遠からず当たっているかと思われます。
Simulationの重要性はこの辺りにあります。
おいらが綿密にSimulationを行うのは多くの場合に沢山の物事にSensitiveになっているからにほかなりません。
大きな変化を「鬱病」は避けなければならないということを肝に銘じて生活を送っています。
でなければ不安定になってしまうんですよね。
鬱病は精神が不調になると体調もLinkし、Synchronizeして悪化します。
「病は気から」という言葉がありますが、鬱病はこれを極端にしたモノだと言ってもいいかと思われます。
ただ思うことはおいらのように病気だと断定されていない方たちが今のおいらよりも敏感だな~と感じることが多くなってきていることですな。
これはおいらが大分回復してきているからなのでしょうけどね。
まだまだそれらの方たちのように健康な生活を送ることが出来ていないのは間違いないおいらですが、ある程度の思考をTraceして読み取ってみると敏感に鳴っていると思いますもん。

最近良く考えているのは

「迂闊に人に自分が使っていたモノをあげるのは失礼だ」

という事実です。
欲しいモノ、望んでいるモノならば願ったり叶ったりでいいのは間違いありませんがね。
健康な人はあまり気が付きにくいのかもしれませんが、人というのは自分の生活があります。
革新や改革というのは行っていかねばならないとは思いますがね。
それは「自分自身の納得」が伴っていなければ意味がありません。

多くの場合にこだわりや納得というのは他人には見えないモノです。
それは心や精神的活動ですし、行動によってでしか他人は理解しようともしません。
「何も言わなくても全て解ってくれる」という人がいればその人は他人を過大評価しすぎであると断言出来ます。
「他人は何か言わないと理解してくれない」はもとより「他人は自分に益が無ければ何もしてくれない」程度に考えておかなければ人生に失望することが多すぎて数えきれないでしょうね。
相互に益になれば良いのかもしれませんが、そもそもそういう事って少ないはずです。

「他人にモノを譲る」というのはInitiativeを得る手段として用いられますが、自分が使っていたものが不要になったモノを他人に譲ったことによりInitiativeを得る方法というのは良くないでしょう。
こういう人って結構多いんですよね。
我が家は家族が多い故に服や身の回りのモノを頂くことが多々あります。
しょっちゅう頂くのですがね。
そのようなものをおいらの部屋に持ってきても結局着たりしませんし、使わないことが殆どなのだと気がつきました。

ところで身の回りのモノを自分がChoiceしたモノだけになりつつあるので生活も大分楽になってきました。
それと部屋を広く使えているので気持ちが良いですな。
まだ手を入れていかねばなりませんが、労力が小さくなってきています。
ボチボチやっていきたいものです。

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