(この記事は映画のストーリーや結末に直接触れています。未見の方はご注意下さい。)
ポスターもパンフレットの表紙も、独特の柔らかな色合いで描かれた花々が美しい。
そんないかにも穏やかで、ちょっと可愛らしい?雰囲気の「外見」も、この映画の場合はなぜか内容の深刻さに相応しいのかも・・・観た後、私はホールのロビーでそんなことをぼんやり考えていた。これらの花々で、ヒロインは何もかもを埋め尽くしてしまいたかったのかもしれないと。
郊外の瀟洒な家に暮らすベッカとハウイー夫婦。ふたりは何気ない日常を送っているかに見える。しかし、家の雰囲気には妙な緊張感があって、それは8ヶ月前に4歳の息子ダニーが自動車事故で亡くなったからだということが、物語の進行と共にわかっってくる。ダニーは走り出した犬を追いかけて、たまたま開いていた門扉から飛び出し、事故に遭ったのだ。最愛の子どもの死は親たちを、不思議の国のアリスのような出口の見えない「ウサギ穴」に放り込んでしまう。
「まだ幼いひとり息子を突然失ったとき、人はその事実とどう向き合うものなのだろう。」
こういうテーマで作られる場合、宣伝用には「喪失と再生」といったコピーが付けられることが多い気がする。「再生」を見たい、その可能性こそ「希望」なのだと無意識に思い込んでいるからこそ、人はこういう映画を観に行くということなのだろうか。
しかし、この映画はほとんど「喪失」だけを描いている・・・。
世間のあちこちで普段使われている「乗り越える」「克服する」といった言葉は、こと「子どもの死」に関する限りは、現実としてあり得ない・・・その事をここまではっきり言い切った映画に、私は出合ったことがなかったのだと思う。
ふと気がつくと、この映画のことを考えている・・・そんな日がしばらく続いた。整理して感想を書こうとしたけれど、色々なことが浮かびすぎて、文章は散漫なままどこまでも広がっていくばかり。一旦は書くのを諦めた。
それでも・・・自分のためにどうしても書いておきたいことが2つある。それだけはやっぱり・・・と、こうして書いている。
1つは、映画の途中で突然気がついて、自分でも非常に驚いたこと。(そこまで驚いたということ自体に、私はショックを受けた。)
「私はこれまでに、“本当に大事な人”を喪った経験がなかったんだ・・・。」
なんだ、そんなことかと言われそうだけれど、私にとってはほとんど驚愕と言ってもいいほどの驚きだった。なぜそこまで驚くのかというと・・・例によって話は昔に遡る。
私は子どもの頃、山の中の小さな町で育った。小さな医院には救急車が頻繁に来て、居住部分も隣接していたので、大けがだの重病だのといったことが子どもの眼にも珍しくなかった。
そこは母の実家でもあって、母は何人もの兄弟たちが皆幼い頃に病気で亡くなった結果、「一人娘」になった人だった。身体の弱かった私は、良くも悪くもやや過剰に医療を受けさせられ、食が細いことを過剰に心配される(子どもとしては「食べない」ことをいつも責められている気がする)日常だった。
「人は、死ぬときは本当に簡単に死ぬ。子どもの場合は尚更だ。」という雰囲気を、子どもの私も事あるごとに、どこかで感じていた気がする。
その後、父は開業をやめたけれど、その頃には私は自分自身の理由で、「死」を身近に感じながら暮らす子どもになっていた。今振り返ってみても、中学、高校、大学・・・と、「死」は私にはすぐ隣にいるもので、傍を一緒に歩いている、そんな存在だったと思う。
大学を卒業した後、精神科への入院を経て、ある時ふと気づいて数えてみたら、知人友人の半数が自殺を図ったことのある人たちで、その多さに驚いた記憶もある。(もちろん未遂に終わった、救助が早くて助かった・・・という人が多く、そのまま帰らなかった人はほんの数人だった。)
私は(自分の身を守るために)目の前の現実からは距離を置く・・・という努力(というより必死の「逃走」)?をずっと続けてきたので、生の現実と接してこなかったことで、ある種の「勘違い」をしたままになったのだ・・・と、今回初めて感じた。自分が何人もの人の「死」に出合ってきたような錯覚を、なぜか作り上げてしまっていたのだと。
自分にとって「死」はそれほど身近なモノで、当然「遺される者」の気持ちもどこかで想像できるような気がしていたのだ。たとえ「タマゴの殻」のような透明なガラス越しにしか世の中を、そこに生きる人々を、自分が見ていないと重々承知の上でも。
それが・・・この『ラビット・ホール』を観ているうちに、自分の「勘違い」に気づかされたのだと思う。
たまたま、妻ベッカ (ニコール・キッドマン)の行動が、どこか自分と共通のモノを感じさせたということもある。私にとってはこの母親は、親近感を感じる相手だった。
息子のことはなるべく早く忘れてしまいたい。何事もなかったかのように振る舞いたい。これまでの生活は無かったことにして、違うやり方で穏やかに暮らしたい・・・。人からも息子のことは聞きたくないし、気を遣われるのも金輪際イヤだ。
息子を撮した動画を深夜に携帯でそっと見て、涙を流す夫。息子のものをベッカが処分しようとするたび反対する彼に、ベッカは苛立つ。
そもそも息子に纏わる話はしたくないのだ。言い争いなど誰ともしたくないのに、ベッカは母とも出産を控えている妹とも、何かにつけ衝突する。自分で自分がコントロール出来ていないことも、誇り高い彼女を傷つける。かといって、手放しで泣くことも彼女には出来ない・・・。
私は彼女のような「努力する」「有能な」人ではないし、他者に対して優越感もあまり持つことのない人間だと思うけれど、彼女の「追い詰められ方」がどこかで自分に似て見えたのだと思う。
人間として許容量が小さいというか、ある種未熟な人格なのかもしれないけれど、理由はどうあれ、この人はもう、ギリギリの所まで来ているんだ・・・そんな気がした。
その瞬間に、なぜだろう、私の中で初めて閃いたのだ。
「私には、本当に大事な人が死んでしまった・・・という経験がない。」
私はベッカほど苦しんだことはない。私の周囲で亡くなったのは、私が日々顔を見て暮らしている人たちじゃなかった。友人、知人と言っても、日常的につき合っている人たちなじゃかった。(親しい人の場合は・・・幸いなことに、どれも未遂に終わっている。)
父も母も、亡くなった時には、少なくとも私にとっては「(私の人生からは)いなくなっていた」人たちだった。 私と両親との別れは、ずっと昔に既に起きてしまっていたのだ・・・改めてそう感じ、なんだか寒々とした場所に自分が立っていたのに、突然気がついたような気がした。
「私は今まで、一体何をわかっていたというのだろう。」
人づてに知人の死を聞くとき、或いは離れて暮らす祖父母の通夜の席で、それでも私は「(私にはたとえ実感できなくても) 人はこういう風に悲しみを感じるものなんだろうな・・・」といった気持ちを持った。
でもそれは、今となるとある種の錯覚だった気がする。それほどベッカの苦しみ、悲しみは、私の身に染みたのだ。
ふと考えた。私の息子たちはもう20代だけれど、彼らの身に何かあったとしたら・・・私は自分がどう思うか想像もつかない。でも、おそらくはベッカのように「忘れてしまおう」とするだろう。そんな気がする。
じゃあ、もしもそれが「4歳の一人息子」だとしたら・・・?
4歳になると、子どもは本格的に親から離れて遊び始める。(日本の家庭だと、夜泣いて親が起こされる・・・といったことも少なくなる。)親としては、「少し離れた場所」から「子どもの全体」を、ハラハラせずに見ていられるようになる時期。子どものいる「風景」が、やっと落ち着いて眼に入るようになる時期。、
ベッカは、そんな時に子どもを喪ったのだ。
「じゃあ私だったら?」
答はあっという間に浮かんだ。
「・・・子どもの死からは立ち直れない。絶対に無理だ。」
「なかったこと」になんてならない。「忘れてしまう」なんてあり得ない。そもそもそこでその世界は終わってしまうのだから。
幼い息子の死は、山のような大波に一緒に巻き込まれるような体験で、波が引いたときには自分ひとりが何もかもなくなった場所に呆然と立っているだけ。眼の前で事故にあったのだとしても、じゃああの小さな息子の存在、彼が居た時間、過ぎた日々の記憶は、一体どこへ行ってしまうというのか・・・。
すべては私の勝手な想像だ。それでも、「喪失」というのはそういうものなんじゃないかと、私はこの時初めて感じた。
ベッカは偶然街なかで、事故を起こした車を運転していた高校生を見かける。衝動的に彼女は彼の後を追う。彼の方も彼女の存在に気づき、互いの立場を判った上で、ふたりは時々公園のベンチで静かなひとときを過ごすようになる。
ベッカは、事故のことで相手を責めたりは全くしない。
むしろ緊張している若い彼を終始気遣い、彼が話しやすい雰囲気を作ろうとする。サンドイッチを作って持っていったり、自分もちょっと可愛いブラウスを着てみたり・・・加害者に会う被害者遺族という風には見えないような、親しげな態度をとり続ける。
私が書いておきたいと思った2つ目は、こういうベッカの態度が私にはとても自然に見えたことだった。
ダニーの死について、置かれている状況・心情を、周囲の誰とも共有できない「当事者」がベッカ以外にいるとしたら、「加害者」の立場に置かれた高校生のジェイソンしか、私も思い当たらない。
ジェイソンは最初、近づいてくるベッカを警戒していただろう。表情は硬く、鈍重そう?な印象を受けるくらいで、この少年の普段の様子とは全く違う表情なのだろうと私も思った。
それでも彼は彼なりに、精一杯の謝罪の言葉を口にする。それは常識的な意味での謝罪の言葉としては足りないものなのかもしれないけれど、この年齢の少年としては非常に正直で誠実なものだと、少なくとも私は感じたし、それはベッカにもちゃんと通じていた。
ベッカは言う。
「いいのよ。あなたの気持ちはわかったわ。」
ジェイソンがパラレル・ワールドをテーマに描いたコミックも、見ようによってはお気楽でいい気なもの・・・と受け取っても不思議じゃないのに、ベッカはポツリポツリと語る彼の言葉に、むしろ慰めを見出しているように見えた。
ジェイソンは言う。
「この世界はひとつじゃなくて、たくさんのあなたや僕があちこちに漂っている。」
「今は悲しいヴァージョンだけど、家族と楽しく暮らしているあなたもいる。」
ベッカは遠くを見る眼で、静かに答える。
「それは素敵な考え方ね。」
こうして文字にしてしまうと、なんだか馬鹿げて聞こえるかもしれない。
でも、私自身、誰かの死に出合うたび、「今だけ、さよなら」 とでもいうような気持ちを感じてきた。目の前に見ることは無くなっても、その人が誰かと話している、歩いている、笑っている姿が、折にふれて目に浮かぶような気がしていた。
ジェイソンに対するベッカの優しさは、彼女が身近な人々から逃げ出したいと思っているから・・・というだけじゃなかったと思う。
子どもを持つと、それまで子どもが好きじゃなかった人でも、「子ども」という生きものの世界に目覚めることがある。自分の子どもだけじゃなくて、子ども全般に対して愛おしさのようなものを感じるようになり、相手が何を思っているのかを知るためには、自分の感情や世間の常識は一旦どこか置いて、辛抱強く耳を傾け、相手が考えたり躊躇ったりしている間は黙って待ち続ける・・・そんなことも出来るようになったりする。
子どもはみんな、自分の子どもの延長でもある・・・そんな気持ちも、どこかにあるのかもしれない。
4歳と、卒業間近な高校生というほどの隔たりがあっても、私はベッカがそもそもジェイソンに、息子のダニーと同じ「子ども 」を見ていたような気がした。ダニーを大事にしていたように、ジェイソンのことも大事にしたい。理屈抜きにそういう気持ちが働く・・・そんな風に見えたのだ。
映画の終盤、それでもベッカは、ジェイソンにはジェイソンの人生があり、ダニーには望めなくなってしまった「未来」があることを目の当たりにする。
それはジェイソンにとっても 、自分の行為が一体どういうものだったのか、この女性にとって何を意味していたのかを、初めて実感する瞬間でもあった。
突然身に降りかかった災難のようだったであろう交通事故・・・運転していた自分の過失は自覚しても、それが亡くなった子どもの家族にとってはどういうものだったのかを、ベッカやハウイーの日常を知らない若いジェイソンにとっては、実感できなくて当たり前だと私などは思う。ジェイソンはそれでも彼なりに、自分の起こした悲劇に向かい合ってきた方だったと。
しかし、ベッカの慟哭をオープンカーから遠目に見つめる彼の表情は、彼が初めて「知った」という衝撃の大きさを物語っていたと思う。
そしてこの出来事がきっかけになって、ベッカはこれまでとは違う道を歩き始める。(おそらくはジェイソンにとっても、事故という出来事の輪郭が少し変わったんじゃないかと想像する。)
映画のラストでは、その後のベッカとハウイーが描かれている。ベッカと同じく、さまざまな出来事を経て、ハウイーももう一度ベッカと暮らすことを選んだのだ。
新しい家で開かれたパーティーの場面で聞こえてくる、ハウイーのモノローグが印象に残る。
「僕たちは○○(誰だったか覚えていない)の子どもたちとも、普通に接するフリをする。そういう風にして、出来ることを日々少しずつ積み重ねていく。」
「もしかしたら、そんな長い長い時間の後にもう少し何か違ったものが、本当にもしかしたら現れるのかもしれない・・・そうどこかで微かに思いながら。」
バルコニーでテーブルに向かう、ふたりの指がそっと触れ合う。映画はそこで終わる。
だけど、妹が甥を産んでくれてよかったです。そのおかげで、ムーマさんの書かれたことが少しはわかりますよ。
何とか老いた者から順番に死んで行きたいものです。
それにしても、素敵な作品でしたね。細やかな心遣いが感じられて美しくて。
本文中に「4歳の子どもは・・・」とかいろいろ書きましたけど、ただ私がそう思っているだけです。
子どもによっても母親によっても、成長の仕方も受け取り方も、人さまざまだと思います。
お茶屋さんは、甥御さんが近くにいらしていいですね。
私は本当は、血縁も物理的距離もそれくらいがいいな~って、個人的に思っているので。
(現実にも、毎日顔つき合わせてる自分の子どもより、よその子どもさんの方が「眼に入りやすい」タイプの親でした(笑)。)
>それにしても、素敵な作品でしたね。細やかな心遣いが感じられて美しくて。
ほんとにそうでしたね~。もうそのひとことに尽きる気がします。
(お茶屋さんの言っておられた「犬」の扱い方と同じようなきめ細かい描写が一杯あって、私なんて、見落としてることが幾つもありそうな気がしています(汗)。)
ベッカが、卒業式に向かうジェイソンを自分の車から見て泣き出してしまうのは、ちょっと見にはなぜだかわかりませんでした。一見、ジェイソンを失うことを悲しんでいるかのように見えるから。でも初めから彼女はジェイソンを“得て”などいないから、あれはムーマさんの言われるように、ジェイソンにダニーの成長した姿を重ねていたベッカが、亡くなったダニーは決して成長してジェイソンのようにはなれない、ということを決定的に自覚したための慟哭だったのでしょうね。その場には、ジェイソンの親もいて、当然のことながら彼にも全く別の家族のいることが見えてしまう。そのことが、ベッカがそれまで抑えこみ耐えに耐えてきたものを突き崩してしまう。
ムーマさんに指摘されるまで、ジェイソンが車から振り返って、泣いているベッカの姿を見つけて驚くシーンのことを忘れていました。言われるように、ジェイソンにとっても、ベッカの慟哭する姿を見て、そのとき初めて彼は愛する息子を失った親の悲しみに生な形で直面したのでしょうね。
でも、人の気持ちは不思議なもので、母親の「哀しみもやがてはポケットの中の小石になる。」という言葉に救われた気がする前段として、ベッカにとって、ダニーのために思い切り泣いてやるあの慟哭が必要だったのではないでしょうか。(それまでにも、陰ではさんざん泣いたとは思いますが。)
>ベッカが、卒業式に向かうジェイソンを自分の車から見て泣き出してしまう
ジェイソンは、束の間とはいえベッカが一番辛い時に「時間を共有」できた唯一の相手だったわけで、あの場面はベッカにとっては「ジェイソンを失った」瞬間でもあったのかもしれません。(別に彼を「得て」いたわけではなくて、ベッカがどこかでそう感じていただけの相手だったのだとしても。)
この映画では、最初私もどう解釈していいのか迷うような場面がいろいろあったんだと思います。でも、しばらく抱えてボンヤリした後で感想を書いている間に、どんどん自分流のシナリオになってしまって、今ではこういう映画として記憶されている・・・そんな感じになりました。
私はガビーさんが掲示板に書いておられた感想からも、色々考えさせられました。
たとえば、ベッカが早くから息子のことを忘れようとすることについて、私は自分でも同じことするだろうな・・・とは思うんですが、それがなぜなのかはうまく表現できなくて、「生物的な意味での危機感」という言葉があるのを見て、「ああ、そういう言い方もあるんだな・・・」などと。
>母親の「哀しみもやがてはポケットの中の小石になる。」という言葉に救われた気がする前段として、ベッカにとって、ダニーのために思い切り泣いてやるあの慟哭が必要だったのではないでしょうか。
私もそう思います。
ベッカが手放しで泣くことが出来ないのが、本当に見ていて辛そうでした。
(序盤に地下室で洗濯機を使っているときの虚脱したような彼女の様子は、息子を失ったという「喪失感」そのもののように見えました。)
今回の記事では全く触れませんでしたが、あの母親の言葉、妹の彼女なりに気を遣っている様子、何より夫の優しさ!(彼は自分とベッカと2人分の悲しみに耐えてくれていたと思います)などなど、印象的な場面も一杯ありました。
観られて、後から色々話せて本当に良かったです。
ありがとうございました。、