眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

『接吻』

2010-02-02 18:40:40 | 映画・本
長すぎる「ひとこと感想」その3。


自分自身との距離が近すぎて、どうしても感想が書けなかった1本。(殺人犯とその彼女の映画のどこが私に近いのか?)

人は長い歳月孤独の中にあると、その人本来の姿ではなくなってしまうことがある。特に小さな子どもの頃からの場合、そのまま続くとその人が本当はどんな人間だったのかを、本人にも見失わせてしまう。

しかし、不思議というか当然というか、本人にとっての善し悪し、幸不幸さえ抜きにした「特別な恋」に出会うのは、往々にしてそういう人たちだ。少なくとも私にはそう見える。この映画もそういう人たちの話だと思って、私は観ていた。

「ああ、ここにもう一人の私がいる。」

「この人の気持ちが、私にはわかる。(私にしかワカラナイ。)」

ヒロインの思い込みの強さを、私は笑えない。相手の表情さえ見ようとしない身勝手さ、傲慢さは、かつて私自身の中にもあったものだ。

一方で、こういう直感は孤独な者同士の間では、オソロシク簡単に通じる。本当に一瞬で「ああこれは同類だな・・・」と判ることがままあるのも事実だと思う。「わかる」のが錯覚だとは、少なくとも私は思わない。

けれど、元々一方通行の想いなので、相手は相手で、自分とは違った光景を見ていたりする。ヒロインが彼を「わかる」ように、被告である彼も、彼女という人間について「見て取っている」ものがある。

映画の中で、被告と弁護士が彼女について話す場面が印象的だ。

弁護士の「あの人はあなたとは違う。」という言葉に、被告はよくわかっているというように頷く。彼女は彼のように「戻れない河」を越えてしまった人間ではないのだと。それは彼女と付き合う中で被告の中に蘇った本来の彼の大人の部分で、そのために彼は犯した罪の重さに初めて気づき、苦しむようにもなっているのだ。

しかし彼が本来の彼に戻っていくことは、「もうあんな孤独の中に戻るのは嫌だ!」という思いで「殺人犯」の彼との関係に必死になっているヒロインから見れば、文字通りの裏切りでしかない。

「ハッピーバースデイ・トゥ・ユー」の歌がこれほどオソロシク聞こえる映画を初めて観た。最初は被告の、最後はヒロインの、ある意味では「誕生」の歌にも聞こえるので、余計に恐ろしく感じる。物語の始まりでもあったこの歌を聞きながら、映画は結末を迎える。

あの「接吻」の意味するものを、私は言葉に出来なくて、感想を書くことを諦めた。物語としてはああなる。私が彼女の立場でも同じコトをする・・・とまでわかっているのに、言語化できない。

それをあっさり(ものの見事に!)言葉にした方があって、見つけたときは正に眼からウロコ。胸のつかえが下りた気がした。(というわけで、以下に紹介しておきます。お茶屋さん、勝手に引用してスミマセン。)

http://homepage1.nifty.com/cc-kochi/jouei01/0912_1.html (チネチッタ
高知かるかん『接吻』)





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2 コメント

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書いてくれてありがとう (お茶屋)
2010-02-07 23:19:32
ムーマさんの感想を読んで何か感じ入るものがありましたよ。
私にとっては『タクシー・ドライバー』のトラビス(デ・ニーロ)が「もう一人の私」でしたが、ムーマさんにとっては『接吻』の京子だったのね。
トラビスも人殺しなのよ~;;;。
いや、そういうことで感じ入ったわけではありませんが(笑)。

「これが本当の私よ!」というのは、彼女の思い込みですよね。長く殻に閉じこもって、とぐろを渦巻いている自分しか見てこなかったから、それが本当の自分だと思っているのでしょうね。他人と関われば、もっと違う自分を発見できたかもしれないけど、京子ちゃん、本当の本当は臆病すぎたかも。そういうふうに考えると、『接吻』は私にとって『イントゥ・ザ・ワイルド』や『アメリ』と同じカテゴリーに入るなー。

拙サイトの引用もありがとうございました(^_^)。
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「これが本当の私」って・・・ (ムーマ)
2010-02-08 12:58:27
お茶屋さ~ん、ようこそ~。

>「これが本当の私よ!」というのは、彼女の思い込みですよね。長く殻に閉じこもって、とぐろを渦巻いている自分しか見てこなかったから、それが本当の自分だと思っているのでしょうね。

そう・・・。お茶屋さんが言われるような、いい意味で「他人と関わる」機会が、京子には無かったんだろうなと思います。(これは全くの想像ですが、「悪い意味」では相当あったのかもしれません。たとえば、学校で執拗ないじめにあったりとか。)
とにかく、何らかの理由で、深い所で自分に自信が持てないでいる。だからこそ臆病で、言って当然のことさえ人に思う通りに言えない。そんな自分の自尊心を保つためには、別の形の傲慢さを「鎧」として身につけざるをえない・・・よくあることのような気もします。お茶屋さんがサイトで書いておられたように、そういう傲慢さは、その人本来のものではないのだと思います。

でも、自分が「大人しくて他人の言いなりになる」だけの人間じゃないんだ!ってことを外に出すのに、あそこまでのことが必要なのか・・・。しかも、それは自分がそうと思い込むようになってしまった、ある種「脇道にそれて(それることを余儀なくされて)、その行き止まりまで行ってしまった」自分なのに・・・。

今でもうまく説明できないんですが、そんなことを思いながら、映画を観ていました。

でもね、その一方で、(困ったことに私は非常にロマンチックなヒト?なので(笑))これはこれで「特別の恋」だと思ってしまうの。どんなに「思い込み」に支配されたものであろうと、今その時がその人の人生そのものだと思うので、批判?のしようがないというか。

どんな種類?の「恋」であろうと、私は巡り合ってしまったら、ほんの一瞬でもそれが人生の「最高の瞬間」だとも、どこかで思っているんでしょうね。たとえその結果この映画のようになってしまうのだとしても。

それにしても、去年の感想書くのに時間取られて、今年に入ってからの感想は全然書いてません(笑)。『3時10分、決断のとき』も『あの日、欲望の大地で』も、タイトルだけ立てて、下書きに放り込んだままです。お茶屋さんは新しいのどんどん書いておられて、「尊敬~」です。
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