眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

「山」の記憶 ・・・・・ 『劔岳 点の記』

2009-07-05 17:50:18 | 映画・本
「CG、空撮一切なし」という言葉に惹かれて、とにかく山の風景が見られればそれだけでいいや・・・と思い、『劔岳 点の記』を観に行った。(実はその前に見た予告編で、それ以上の期待はしない方がいいような気がしていたのかもしれない。私は新作旧作を問わず、旧日本軍の軍人と覚しき人々が登場する映画が、元々苦手なのだ。)

そして実際、この映画は「山」が主役の作品だったと思う。

ただ、新田次郎原作という物語の描き方も、決して表面だけのものではなかった。そういう意味では、この映画は予想していたものとはかなり違っていた。

これほど作り手の「撮りたいもの」が明確で、しかもおそらくは関わった人達全員が、本気でただただそれを追い求めた映画を、私は久しぶりに観た気がしたのだと思う。(「関わった人達全員」というところが大きい。)

山を撮したこれほどの映像が、それも惜しげもなくふんだんに、次々披露されるのを呆然と観ていると、この映画の作り手が元々「撮影」(つまり「眼」であること)を本職にしてきた人だということが、よくよく判る。

しかも、観客はただ「観ている」のではなく、演じている人達の身体・眼を通して、自分も「山」を「体験している」ような気持ちになってくるのだ。


この映画が、映画としてバランスが取れた「よく出来た」作品なのかどうか、私にはわからない。

例えば、俳優さん達は「山」を離れた場所では当然「演じている」人達に見え、映画としてもそういった場面(たとえば軍の上層部との会合や主人公の自宅など)はよくある邦画の一場面に見える。しかし、一旦「山」に戻ると、彼らは私の眼には、所謂「普通の人」に見えてくる。

「山」という自然の厳しさの前には、経験ある俳優さん達がみな、まるで初めての場所にいるエキストラの人達のようにも見えて、「演じている」筈なのに、単に歩いている、椀を手に食事をしている、或いは脅えている、必死になっている、そしてただ呆然と山や雲海を眺めている、単なる「人間」に見えてくる・・・とでもいうように。

しかも彼らは明治40年ごろ、日露戦争終結直後の人達という設定で、天幕と呼ばれるテントと望遠鏡、双眼鏡、簡単なアイゼン?などの他には、西洋風の登山用具・装備は殆ど身につけていないように見える。案内人や荷物運びの人夫達は、それこそ江戸時代のまま?という昔ながらの衣装と道具だ。

そんな装備で、ただ山の経験と培われた勘を頼りに、嵩張る荷を背負い一歩一歩足を運ぶ彼らを見ていると、「山」の持つ圧倒的な存在感、「悠久」「永遠」を思わせる自然の中では人間がどれほど小さく儚い存在かが、観ている者にも染みてくる。

俳優さん達の体験している「山」という場が、明治時代に測量隊の人達が体験した同じ「山」であること。だから、三角点を一つ一つ作り上げた人達と同じ「山の体験」(少なくともその片鱗)を、スクリーンを観ている者にも「体験」させてくれるところが、この映画にはあるのだと思った。


ただ、そういう「体験」の効果を増すためにああいったクラシックの名曲が全編に使われたのだとしたら、むしろ逆効果だったかもしれない・・・とも、観ている途中、私は何度も思った。

わざわざこの映画のために録音したというオーケストラの演奏は、ちょっとごつごつした響きで、それ自体は山の映像に合っているようにも思うのだけれど、選曲、音量など、使い方のせいで、むしろ映像や物語の自然な流れを妨げるように感じる箇所がいくつもあって、残念な気がした。


物語の中では、さまざまな困難の後、人々は劔岳の頂上に立つ。

しかし、映画全体として強調されているのは、困難な登頂に成功したことそれ自体よりも、山を目指した者、それを支えた人々は、身分、立場は異なっても、同じ「山の仲間」になっていく・・・ということだったと思う。

また、測量隊の人々が死を賭するような登山に挑むのは、我が身の利益は勿論、名誉名声のためですらなく、ただ「それが自分の仕事だから全力で遂行するのだ」とでもいうような、無名の人々の「仕事」というものに対する姿勢も、それぞれの職業について描かれていたと思う。

そういった無名の人々の努力、その家族の献身の上に現在の私たちの生活があるのだ・・・といったことも、作り手は言いたかったのかもしれない。


意表を突かれる、しかしとても美しいエンディングロールの後、照明がつき会場が明るくなった瞬間、私は軽いショックを受けた。と言っても、急に現実に引き戻されたので、単純に驚いただけなのだけれど、最近はここまで驚かされることは珍しい。

家に帰る途中、歩きながらふと思った。

映画を観ている間、私が一番強く感じていたのは、曰く言い難いような「懐かしさ」だったのかもしれない。そこから引き戻されたためにショックを受けるというほどの、ある種特別な感情に、映画を観ながら私は浸っていたのだと初めて気づいた。


という訳で、ここからは映画とは関係のない昔話になる。


自分ではこれまで殆ど意識したことがなかったけれど、私の元々の身内には富山県出身の人が多い。そもそも父方の祖父母が富山県の人で、伯父が結婚した相手も私の義兄に当たる人も、やはり富山の人だ。

私は母の実家のある福井県の小さな盆地で子ども時代を過ごし、その後は石川県の金沢に住んだので、富山のことは殆ど知らない。父方のそういった人達も、やはり金沢に長いこと住んでいたので、子どもの私にとっては「金沢の人」の感覚だった。

けれど今思い出してみると、祖父母は勿論、伯父も父も、金沢弁と富山弁が同じくらい混じった言葉を話していた気がする。そして、私はそれを全く不思議だと思わなかった。

今回映画の中で、俳優さん達がみな苦労して?富山弁っぽいセリフを話しておられるのを聞きながら、私は金沢弁でなくても、北陸のあの辺りの言葉はどれを耳にしても、自分が郷愁を感じることに気づき、ちょっと驚いた。

故郷を離れて40年近く経つ。離れなければならない、自分としては切羽詰まった思いがあってしたことだ。

それでも、北陸のような日本海側とは気候も文化も全く違う、高知のような土地に長く暮らしているうちに、雨、雪、雲、日差しや木々といった何でもない自然の端々に、ふと郷愁のようなものを感じることが多くなってきて、自分でも驚いている。高知の風土、人々の気性を、私はとても気に入っているのに。

もっとも、ただ単に歳を取ったというだけのことなのかもしれないけれど。


立山については、他県の大学に入って間もない頃、ヘンテコリン?な経験をしている。

金沢大学のスキー部の人達が雪の残る立山で夏合宿をする際の、食事を担当してくれないかと、親の知り合いから頼まれたのだ。適当に断るという芸当の出来ない私は、本当に嫌々引き受けた。

もともと人見知りが強く、知らない環境への警戒心のカタマリのような私が、行ったこともない山の上で、男子学生20人分などという、作ったこともない量の食事を用意するなんて。「部員の食事当番2人をこき使って下さい。」と言われても、私は最初から気が重かった。(そもそも、ずっと年上の男の人達を「こき使う」って、一体どうやったら出来るんだろう・・・。)

立山はその頃でも、「(室堂までは)ハイヒールで上がれる」山として地元では知られていた。その室堂から山小屋までは、山歩きというほどの距離でもなく、そこで私はほんの数日食事作りをしたものの・・・よほど身に合わないことをしたのだろう、身体の具合が悪くなって、私は約束の日数を果たさず、さっさと下山することになってしまった。

申し訳ないとは思ったものの、偶々下山する学生さんがいたので、一緒に下りるということになった時、私は本当にほっとした。もう二度と、コンナトコロへ来たくない。

「山」では人はひとりになれない。安全のために、ひとりになるわけにはいかないという意味と、もう一つ。「山」は人を結びつける作用があることに、当時の私は、それでも気づいたのだ。ただ、当時の私はそのこと自体、自分を脅かす雰囲気と感じたのだろう。食べるものを受け付けないほど、私は「山」の暮らしとの相性が悪かった。

そんな経緯だったので、辺りの景色など全く見た記憶がない。自分がどの辺りに居たのか、後から地図を調べることもしなかった。私にとっては思い出したくない記憶の1つ・・・と、今回の映画を観るまでは思っていた。


ところが、映画の中でほんの一瞬、私は見たことのある風景に出合った。


あのドサクサの最中にも、自分が辺りの風景を見ていたのを初めて知って、私は呆気に取られた。

映画には、夏姿や冬姿の雷鳥が物語の合間に挟まって出てくる。カモシカはもちろんのこと、雷鳥も、私は実際には見たことがない筈の鳥だ。絶対に人には近付かないと山好きの人が言うのを聞いたこともある。

私が見た筈はないのだ。

それなのに、私はその鳥を、とてもとても懐かしく思った。


この気持ちは一体何なのだろう・・・。


映画の物語を一生懸命追いかけているつもりなのに、一方で、いつの間にか私は、自分の中に残っている「山」の記憶を探ろうとしているのに気づいた。



子どもの頃私が暮らした母の故郷は、福井県の東部、岐阜県寄りの、山に囲まれた小さな城下町だった。山間部の気候というのか、寒暖の差が大きく、当時は例年でも冬の積雪は3メートル。大雪の年には交通が途絶して、自衛隊が除雪に来る・・・という土地柄で、後に日本有数の豪雪地帯だったと知った。

子ども達は、冬は雪を相手に、それ以外の季節は近くの川や城山で遊んだ。

湧き水の豊富な土地で、年中地下水が噴出している場所が何カ所かあり、私たち子どもも遊びの行き帰りに、水を飲んだり手足の泥を落としたり、あるいはただ「湧き水」というものの不思議さに触りたくて、「清水(しょうず)」と呼ばれるそういう場所に立ち寄った。

普通の道を歩くのは退屈なので、道のない所を選んで勝手に登ろうとして崖を落ちかけたり、首吊りの木と呼ばれる張り出した木の下を、幽霊に捕まらないように大急ぎで走り抜けたりした後、天守閣があったという山のテッペンに立つと、小さな町のある盆地の全景が、眼下に広がっていた。

夕焼けの時は、太陽が丁度町並みの向こう側に沈んでいく・・・。

そんなある日、一度だけ、清水の近くで修験者と覚しき人を見かけたことがある。

それはほんの一瞬だった。相手はこちらのことなど、全く意に介していないのが、子どもの目にも判った。

どこをどう見ても天狗にしか見えないその人のことを、帰ってから祖母に話すと、「○○さん(修験者が集まり修行をする山)から来たんやろ。」と、祖母はごく当たり前の表情で教えてくれた。山はどんな山でも、普段から「さん付け」で呼ばれていて、信心深かった祖母は毎朝、太陽や湧き水に手を合わせるように、見える山にも手を合わせ、眼を閉じて小声で「南無阿弥陀仏」と唱えた。


長い冬の終り、雪が黒く汚れて見えて、何とはなしに滴がポタポタ落ちる音が耳につくようになる頃、待ちかねて、子ども達は山や川縁に遊びに行く。

そして、ある日突然、春が来たのを知る。

これはもう、本当にその瞬間が判る。「春の匂い」がはっきり嗅ぎ取れる。緑の香りと言ってしまえばそれまでだけれど、実際はもっと強い、もっと生々しい「生き物」の匂いだ。それに出合うと、本当に「ああ、春が来たんだ!」と、そのまま駆け出してしまいたくなった。


その町での7年間には、子どもなりにいろいろなことがあった。私にとってはあまりいい思い出の無かったような気がする子ども時代だったけれど、少なくとも自然については、こうして今書いていても、美しいもの、見惚れるもの、心躍るようなものに囲まれていた気がする。



ただ「山」とだけ言うと、私は長い間「大山(だいせん)」が浮かんだ。

学生時代、鳥取県の米子に暮らした4年間、大山はいつも身近にある山だった。全体が既に老年期にあるという比較的なだらかな中国山地では、1700メートル級の大山は群を抜いて高い山だ。米子の街中から見ても、高い山は大山しかなかった。当然、昔から人々の信仰を集める山だと聞いた。

春は少し霞んだような柔らかい、夏はくっきりとした、紫色に近い青。秋の終り、頂上の辺りが白い刷毛でさっと一刷きされたかと思うと、間もなく真っ白に輝く冬の姿が現れる。

北陸同様、山陰のその辺りも、冬は曇天にみぞれや雪の日が続く。

それでも、思いがけないほど高い所に見える大山は、雪が止み、ほんの少し雲が切れて、頂上近くに陽が差す時など、いかにも「神が宿る山」という感じがした。


米子での4年間は、私にとっては、外側から見える現実の自分と内なる本来の自分とが、全く別に存在していたような時代だった。外側の現実が、あまりに自分とかけ離れた世界なので、どうしたらそれについて行けるのかも分らず。ただただ義務として目の前に現れる雑事(学業或いはさまざまな人間関係)をこなしていくだけで精一杯で、この先自分がどうなっていくのかについては、空恐ろしいものを感じていた。

私がその時期に死なずに済んだのは、いくつかの幸運に恵まれたからだ。それらはまったくの偶然からもたらされたものだったけれど、もしかしたらその中に、大山という山の存在もあったのかもしれない・・・と、後になって思った記憶がある。

何のために受けるのか判らない、自分にとっては苦痛でしかない講義や実習に向かう途中、自転車を走らせながら白い大山を見上げた。

冬の大山の美しさは、私とは全く関係のない次元の存在に見え、私は自分の現実も自分という人間のことも一瞬忘れて、その姿に見とれた。

冷たい空気の中で、神々しいほど美しい山を見たからといって、私の現実が変わるわけではなかった。

それでも、その瞬間だけでも、もう少しこの美しさを見られる世界に留まろうと思わせるようなものが、「山」にはあったのかもしれない・・・という思いが、その後「存在しないものたち」に囲まれて暮らした頃にも、なぜか私の中からは消えなかった。




映画の簡単な感想を書いておくつもりが、こんなに長い昔話になってしまった。

『劔岳 点の記』という映画が、これほどさまざまなことを私に思い出させたのは、山の映像の美しさと同時に、明治という時代背景もあったのだと思う。

私の子ども時代、田舎ではまだまだ「山」は(所謂里山は別として)猟師しか行かない場所だった。人は「仕事」でこそ山に入ったけれど、それ以外では「信仰」のために登る人しかいなかったのだと思う。

映画の中での、山に住む人々の暮らしは、どこか私の子ども時代と重なるものがあったのだ。


私自身は大人になってからは、山歩きの機会もなく今に至っている。私にとっての「山」は、いつも仰ぎ見るものだった。

この映画の中で一番好きな場面を挙げるようにと言われたら、私は、登場人物たちが目の前の山、雲海、そこに沈む夕日などを見ている、それを後方から撮したシーンを挙げるだろう。主人公やその案内人が、ただ黙って景色を見ている・・・その後ろ姿が、私にはとても印象的だったのだ。恐らくは「登る」彼ら以上に。


最後に、映画でこれだけは本当にフィクションなんだな・・・と思って微笑ましく?感じたことを1つだけ。(これが最後の昔話だ。)


私は学生として米子に住む前、中学生の頃に、高校生だった姉と二人だけで山陰を旅行したことがある。3月の終り頃で、大山の麓の大川寺という所までバスで行ったのはいいものの、まだまだ雪があって革靴では歩くのもままならず、あまりの冷たさにバスの待合所に駆け込むと、いかにも山男といった感じの男性が2人、声を掛けてくれた。こっちでストーブに当たったらいいという身振りに始まって、しばらくその人達と話をしたのだけれど・・・その時の驚きは今もよく覚えている。

私はその人達同士が話し始めると、なんと一言も理解できなかったのだ。一生懸命、話の筋を追おうとしても、全く解らないのに、私は呆気に取られた。

それでも社交的?な方の人が、なんとかもう1人の言うことを通訳してくれた。

「もう少しすると、○合目のあたりのお花畑に花が咲く。あそこは寝っ転がっていても、通る人からは全然見えないから、ボーイフレンドと一緒に来たらいいよ。」

そう言いながら、シャイ?な方の人も一緒に、楽しそうに笑った。そして、時刻表を2人で指さしながら、口々に帰りはどのバスに乗ったらいいのかも教えてくれた。

「次のバスは乗ったらいけない。次の次のに乗りなさい。」

「そして、一番前の席に座る。1つでも後ろはダメ。一番前の席!」

なぜ2人がそう言ったのかは、そのバスの一番前に座って走り始めてから判った。そのバスは米子に直行せず、雪の蒜山高原をあちこち回り道しながら帰る便だったのだ。

自分たちだけのために展開するかのような、素晴らしい眺望(と、私たちは感じた)の中を、バスはただただ走り続けた。


その後米子に住むようになってからも、私は一度も大山に行くことはなく、蒜山の雪景色を見たのもその時だけだ。

今から考えてみると、あの時2人の強力さん達と出会ったことは、なぜか私に「山」の雰囲気を教えてくれた気がする。土地の人同士が話し始めると、一言も解らなくなってしまう。それでも、解るほんの一言二言だけで、私はその人達の温かさを感じた。それだけでもう十分だと思った。

言葉そのものは、それほど大したことは伝えないのかもしれない・・・。私はすべてにまず言葉ありきの家庭で育ったと思うので、この時の体験は新鮮だった。


今回、映画を観ながら、案内人や人夫さん達の言葉がよく解るのが、何だかくすぐったいような感じがして、これはフィクションの便利さだな・・・などと、なんとなく1人で可笑しかった。











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