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兵馬俑の謎、2200年の秘密

2009-02-22 06:56:16 | Weblog
西安(せいあん)は、シルクロードの旅の起点
その西安の“兵馬俑”(へいばよう)にも“”がある。

その兵馬俑は、西安の北東33キロにある、8千体の兵士の、
テラコッタ(粘土の素焼き)。兵士の身長は1.8メートル。


秦(しん)の“始皇帝”(しこうてい)の墓、“始皇帝陵”(りょう)の、
東1.5キロにあって、始皇帝陵を、東方の敵から守るように、
東を向いている。手前が西。

この兵馬俑と始皇帝陵は、始皇帝の“大土木事業”である。

この兵馬俑は、1974年に、井戸掘りをしていた農民が、
地中から偶然に発見した……たった30数年前のことである。

そして、1987年に、兵馬俑は、
始皇帝陵とともに、世界遺産になった。


「兵馬俑の発見者の一人、楊志発さんです」
と、中国人ガイドは紹介した。みやげものやで。
ガイド・ブックを買うと、写真を撮らせてもらえる。
机には、兵馬俑を訪れたVIPとの写真ほかが、
こちら向きに置いてあった。

兵馬俑の“”、
――兵馬俑、いつからつくり始めて?
いつころまで続いたのか?
そして、1974年に発見されるまで、
何年眠っていたのだろうか?

中国人ガイドに聞いてみた。
「兵馬俑の時期は、わかっていません。
兵馬俑の記録もありません」
と言う。

しかし、始皇帝陵については、話してくれた。
「秦の始皇帝は、13歳秦王になりました。
秦王になると、始皇帝陵の建設にとりかかりました。
紀元前221年38歳のときに、中国を統一しました。
紀元前210年50歳で死亡するまで37年間、
70万人の奴隷を使って、始皇帝陵をつくり続けました」

兵馬俑のつくり始めは、推測するしかない。
始皇帝は、13歳で始皇帝陵の建設を始めている。
始皇帝38歳、紀元前221年に、中国を統一した。
兵馬俑のつくり始めは、始皇帝が中国を統一した、
38歳から、としてみる。

始皇帝陵は、始皇帝が亡くなる50歳まで、建設していたから、
兵馬俑の建設の終わりも、始皇帝が亡くなる50歳とする。
12年つくっていたことになるが、どうだろうか。

兵馬俑の“”、
――兵馬俑は、何年、秘密を守ったか?
紀元前210年に製造を終えてから、
1974年に発見されるまで、
2200年近くも、秘密を守ったことになる。

敦煌文書は、850年も眠り、
チュニジアのドゥッガは、
1600年も忘れ去られたが、
兵馬俑は、2200年も眠っていた。
――兵馬俑は、長い間、秘密を守った。

兵馬俑の8千体とは、気が遠くなるだ。
始皇帝陵は、70万人の奴隷を使って、
37年、建設していたということだが、
――兵馬俑は、何人でつくったのだろうか?

これには、中国人ガイドは答えてくれた。
「兵馬俑は、奴隷2万人が、
窯(かま)2千個を使って、つくりました」
そして、
「兵馬俑が完成すると、同じものができないように、
奴隷は殺され、窯は破壊されました」

始皇帝の“大土木事業”である、
始皇帝陵”は、奴隷70万人で、37年間建設し、
兵馬俑”は、奴隷が2万人、窯が2千個と、
規模が大きい。

しかし、2つ目の“”がわいてきた。
――始皇帝はどんな“策略”で、2200年もの間、
兵馬俑の秘密を隠し通す”ことができたのだろうか?

「兵馬俑をつくった奴隷2万人は殺され、
窯2千個は破壊された」
ということだが、
――2万人も殺せるだろうか?
生き残りは、いなかったのだろうか?
1974年に、兵馬俑が発見されるまで、
2200年もの間、盗掘も、破壊もなく、
グッスリと眠っていたが。
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