【賤ケ岳城】しずがたけじょう
【別名】賤ケ岳砦
【構造】山城
【築城者】不明
【築城年代】不明
【指定史跡】ー
【場所】滋賀県長浜市
地図

本能寺の変により織田信長の死を知らされた羽柴秀吉は中国大返しを敢行、
山崎の戦いで首謀者の明智光秀を討つと、織田家では羽柴秀吉と柴田勝家が対立し賤ケ岳の合戦へと発展。
賤ケ岳城は、賤ケ岳の戦いよりも以前に築かれていた城であることが「信長公記」にみられます。
山頂近くまでリフトで登ることが出来ます。
遠景

正面に見える山が賤ケ岳です。
頂上の樹が伐採されていて、山に一直線にリフトのラインが見えています。
駐車場

麓のリフト乗り場駐車場に到着。
リフトが午前9時から稼働ということで、9時になる前に他の城に寄り道をしてから
やって来ました。
この日は天気も良かったので、この後すぐに満車になりました。
リフト乗り場

駐車場から少し歩くとリフト乗り場です。
登山道

ここでリフトに乗らない選択肢もあります。
私はもちろん、楽して頂上目指します!

券売機で往復900円のリフト券を買って、いざ!
なお、冬場はリフトが動いていないので運行状況を確認してください。

いや~ 楽ちん楽ちん♪
なんて乗ってたんですけどね~
…。

上に行くに従って角度はキツくなってきて、結構怖い😱
地面とは近いので、いざとなったら飛び降りることが出来そう?なんて考えながら乗ってました。

リフトを降りてからは自分の足で頂上(賤ケ岳城)まで登ります。
賤ケ岳合戦戦没者霊地

途中、賤ケ岳合戦戦没者霊地というのがあります。
天正11年4月20日、21日に起きた賤ケ岳の合戦の死者を弔う石仏が
野山に点々とあり、里人がずっと無縁仏を守っていたとのことです。
それらを合戦400年を機に、麓からこの地に移して山開き祭に供養するようになったといいます。
近頃の戦争問題を考えると、これからこの先戦の無いようお願いしてしまいました。

頂上が見えて来ました。
暑さと運動不足で結構体力消耗しました💧
南郭

ようやく南郭に辿り着きました。
めちゃめちゃ眺めが良いです\(^o^)/

こちらが琵琶湖です!
なんて美しい景色でしょう。
こんなところで戦なんかしてはいけません!
主郭

天気が良いので皆さん食料を持って、景色をおかずに食事してます。
私はパンを持っていたのですが、カップヌードルを食べている人が羨ましかった🤣
ほんと、そういう気分になりますよね。
石碑

この石碑のある場所は主郭西側の土塁跡です。
無名武将像

この銅像は、ずっと敗北し、疲れ切った柴田勝家像なんだと思い込んでいたのですが
「武者の像」であって柴田勝家とは記されていませんでした。
北郭

北郭にはトイレが設置されています。
山頂にトイレとは、さすがに観光地です。(ありがたい)
縄張図

三の郭にある看板に縄張図があります。
観光地化していますが、ここでの戦いと共に城としての役割が示されているのは
ありがたいことです。

戦場跡地としては有名ですが、城跡としては知名度が低いので
この縄張図によって城(砦)であった実感させられます。
よく見たら、いつかお会い出来たらいいなと思っている方のひとりでもある長谷川氏の縄張図と解説だったんですね。
三等三角点

三等三角点なるものがここにあります。
山城でたまにお目にかかることがありますが、三角点は地球上の正確な位置(緯度・経度)を示すもので
測量に使われる重要なポイントです。
ここでは三等と付いていますが、この等級によって設置の間隔が違います。
三等は4km間隔で設置されているなどの基準があるようです。
また、この三角点を移動させたり破損させたりすると懲役または罰金が科せられます。
重要なものなので大切にしましょうね。
余呉湖

1573年(天正元年)に小谷城で織田信長と対峙した
浅井長政の救援に駆け付けた朝倉義景の陣が置かれていたこともあります。
織田信長の後継者を決める織田家重臣会議「清洲会議」が引鉄となり、賤ケ岳合戦へ。
長浜城主の柴田勝豊は援軍が期待できず降伏し、秀吉との決戦を覚悟した勝家は本陣を玄蕃尾城とし、
余呉湖を挟んで睨み合い、激戦となりました。
そして余呉湖はこの2日間の戦いで、血で赤く染まったという。
戦とは別に、余呉湖には水浴をしていた天女が羽衣を失くして天に帰れなくなったというあの「羽衣伝説」も残されています。
ここだったとは、知らなかった。(三保の松原あたりの話だと思ってました)
ガイド

2名のボランティアガイドさんが説明をしてくれています。
そしてここでは近江の城カードをいただきました。
じわじわ知られてきている城カードがもらえたので天気の良い日にはぜひガイドさんの話を聞いてみてください。
二の郭虎口

二の郭は比較的土塁が残っていて、虎口も確認出来ます。
低いので何気ない凹凸に見えるのですが、元々主郭もほぼ全周に土塁が巡っていたようですが
現在は西側に残っているだけです。

歩て降りてこようかとも思ったのですが、日光に結構当たって体力消耗したので
帰りもリフトに乗ったのですが、高所恐怖症ではないのですがジェットコースターなど苦手なので
この急勾配は長野の車山高原で乗ったリフトを思い出して怖かったです。
七本槍

福島正則・脇坂安治・糟屋武則・平野長泰・片桐且元・加藤清正・加藤嘉明の七名が
七本槍と呼ばれる戦国武将です。
戦国鍋TVで知った賤ケ岳の戦い。
きっかけがなんともあれですが、おかげで七本槍全員の名前もすぐに言えます!
でも、実は9人いたという話を本で読んだことがあります。
桜井家一と石川一光が居たはずなのですが戦死と病死したという説があるそうです。
天気に恵まれたこともあり、とにかく景色が美しく
お弁当を持って登りたいという気持ちになります。
一日中過ごしていてもいいなと思うような気持の良い場所なので合戦場のイメージが湧きませんでした(^^;
顔出しの家紋を見ながら、次は誰?と考えながら登るのも退屈しなくて良いですよね。
山城ながらとても賑やかでした。
令和4年10月2日登城
今回の参考本
【別名】賤ケ岳砦
【構造】山城
【築城者】不明
【築城年代】不明
【指定史跡】ー
【場所】滋賀県長浜市


本能寺の変により織田信長の死を知らされた羽柴秀吉は中国大返しを敢行、
山崎の戦いで首謀者の明智光秀を討つと、織田家では羽柴秀吉と柴田勝家が対立し賤ケ岳の合戦へと発展。
賤ケ岳城は、賤ケ岳の戦いよりも以前に築かれていた城であることが「信長公記」にみられます。
山頂近くまでリフトで登ることが出来ます。
遠景

正面に見える山が賤ケ岳です。
頂上の樹が伐採されていて、山に一直線にリフトのラインが見えています。
駐車場

麓のリフト乗り場駐車場に到着。
リフトが午前9時から稼働ということで、9時になる前に他の城に寄り道をしてから
やって来ました。
この日は天気も良かったので、この後すぐに満車になりました。
リフト乗り場

駐車場から少し歩くとリフト乗り場です。
登山道

ここでリフトに乗らない選択肢もあります。
私はもちろん、楽して頂上目指します!

券売機で往復900円のリフト券を買って、いざ!
なお、冬場はリフトが動いていないので運行状況を確認してください。

いや~ 楽ちん楽ちん♪
なんて乗ってたんですけどね~
…。

上に行くに従って角度はキツくなってきて、結構怖い😱
地面とは近いので、いざとなったら飛び降りることが出来そう?なんて考えながら乗ってました。

リフトを降りてからは自分の足で頂上(賤ケ岳城)まで登ります。
賤ケ岳合戦戦没者霊地

途中、賤ケ岳合戦戦没者霊地というのがあります。
天正11年4月20日、21日に起きた賤ケ岳の合戦の死者を弔う石仏が
野山に点々とあり、里人がずっと無縁仏を守っていたとのことです。
それらを合戦400年を機に、麓からこの地に移して山開き祭に供養するようになったといいます。
近頃の戦争問題を考えると、これからこの先戦の無いようお願いしてしまいました。

頂上が見えて来ました。
暑さと運動不足で結構体力消耗しました💧
南郭

ようやく南郭に辿り着きました。
めちゃめちゃ眺めが良いです\(^o^)/

こちらが琵琶湖です!
なんて美しい景色でしょう。
こんなところで戦なんかしてはいけません!
主郭

天気が良いので皆さん食料を持って、景色をおかずに食事してます。
私はパンを持っていたのですが、カップヌードルを食べている人が羨ましかった🤣
ほんと、そういう気分になりますよね。
石碑

この石碑のある場所は主郭西側の土塁跡です。
無名武将像

この銅像は、ずっと敗北し、疲れ切った柴田勝家像なんだと思い込んでいたのですが
「武者の像」であって柴田勝家とは記されていませんでした。
北郭

北郭にはトイレが設置されています。
山頂にトイレとは、さすがに観光地です。(ありがたい)
縄張図

三の郭にある看板に縄張図があります。
観光地化していますが、ここでの戦いと共に城としての役割が示されているのは
ありがたいことです。

戦場跡地としては有名ですが、城跡としては知名度が低いので
この縄張図によって城(砦)であった実感させられます。
よく見たら、いつかお会い出来たらいいなと思っている方のひとりでもある長谷川氏の縄張図と解説だったんですね。
三等三角点

三等三角点なるものがここにあります。
山城でたまにお目にかかることがありますが、三角点は地球上の正確な位置(緯度・経度)を示すもので
測量に使われる重要なポイントです。
ここでは三等と付いていますが、この等級によって設置の間隔が違います。
三等は4km間隔で設置されているなどの基準があるようです。
また、この三角点を移動させたり破損させたりすると懲役または罰金が科せられます。
重要なものなので大切にしましょうね。
余呉湖

1573年(天正元年)に小谷城で織田信長と対峙した
浅井長政の救援に駆け付けた朝倉義景の陣が置かれていたこともあります。
織田信長の後継者を決める織田家重臣会議「清洲会議」が引鉄となり、賤ケ岳合戦へ。
長浜城主の柴田勝豊は援軍が期待できず降伏し、秀吉との決戦を覚悟した勝家は本陣を玄蕃尾城とし、
余呉湖を挟んで睨み合い、激戦となりました。
そして余呉湖はこの2日間の戦いで、血で赤く染まったという。
戦とは別に、余呉湖には水浴をしていた天女が羽衣を失くして天に帰れなくなったというあの「羽衣伝説」も残されています。
ここだったとは、知らなかった。(三保の松原あたりの話だと思ってました)
ガイド

2名のボランティアガイドさんが説明をしてくれています。
そしてここでは近江の城カードをいただきました。
じわじわ知られてきている城カードがもらえたので天気の良い日にはぜひガイドさんの話を聞いてみてください。
二の郭虎口

二の郭は比較的土塁が残っていて、虎口も確認出来ます。
低いので何気ない凹凸に見えるのですが、元々主郭もほぼ全周に土塁が巡っていたようですが
現在は西側に残っているだけです。

歩て降りてこようかとも思ったのですが、日光に結構当たって体力消耗したので
帰りもリフトに乗ったのですが、高所恐怖症ではないのですがジェットコースターなど苦手なので
この急勾配は長野の車山高原で乗ったリフトを思い出して怖かったです。
七本槍

福島正則・脇坂安治・糟屋武則・平野長泰・片桐且元・加藤清正・加藤嘉明の七名が
七本槍と呼ばれる戦国武将です。
戦国鍋TVで知った賤ケ岳の戦い。
きっかけがなんともあれですが、おかげで七本槍全員の名前もすぐに言えます!
でも、実は9人いたという話を本で読んだことがあります。
桜井家一と石川一光が居たはずなのですが戦死と病死したという説があるそうです。
天気に恵まれたこともあり、とにかく景色が美しく
お弁当を持って登りたいという気持ちになります。
一日中過ごしていてもいいなと思うような気持の良い場所なので合戦場のイメージが湧きませんでした(^^;
顔出しの家紋を見ながら、次は誰?と考えながら登るのも退屈しなくて良いですよね。
山城ながらとても賑やかでした。
令和4年10月2日登城
今回の参考本