むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

桂泉院(長野県)

2019年08月17日 10時23分02秒 | その他史跡
桂泉院けいせいいん
別名法幢院・龍澤山桂泉院
構造寺院
造営者月哺禅師
造営年代1353年(正平8年)
指定史跡梵鐘(県宝)
場所伊那市高遠町東高遠2322 地図

高遠城主であった高遠太郎家親が月哺禅師の高徳を聞き、城の鎮護の寺として開山したと言われます。
1592年(文禄元年)に上野国松井田の補陀寺の住僧であった荊室広林が来た際、
どんな人でも出入りができる城外に移すよう勧め、清い泉の湧き出る桂の木の傍に移し、
龍澤山桂泉院と称するようになりました。
当初法幢院は高遠城内にありましたが、1621年(元和7年)に現在の地に移りました。



山門
駐車場は本堂がある境内の方にあります。
車は境内側に置かせてもらい、立派な山門を見るため、階段を下りて来ました。


本堂

高遠城内に在った頃には、織田勢によって落城させられた際には法幢院で法要が営まれた。
現在は城外で静かに佇んでいます。


位牌堂

位牌堂は、昭和56年に仁科五郎盛信公400年遠忌を記念して建立されたものです。
ここには仁科五郎盛信・小山田備中・渡辺金太夫・諏訪はな・諸士の位牌が安置されています。


梵鐘

この梵鐘は、1582年(天正10年)織田信忠の大軍が、
高遠城へ侵攻する際に飯田市の開善寺を焼払い、鐘を奪い取って
陣鐘として打ち鳴らしながら運んで来たものです。
その後勝利した織田軍は鐘を、当時城内にあった法幢院(後の桂泉院)に
鐘を残して行きました。
1355年(文和4年)に藤原朝長によって作られました。



飯田から引きずって来たために、突起物が取れてしまっています。
擦り傷もいっぱいあります。
中学生の頃、住職さんからお話を聞きました。
ここに来るのはそれ以来でしょうか…。


桂水

ある晩、荊室広林和尚の夢の中に老人が現れ、清泉の湧き口を教えてくれました。
すると桂の木の根元から清水が湧き出しました。
やがてこの水は「桂水」と呼ばれ、高遠城内の黄金水と満光寺境内の檜水と共に
高遠の三名水と云われています。


高遠城懐古の碑

「三峰の碧水 兜城を護り 月蔵山頭 弦影明らかなり 
数万の織軍 犇めいて 塁に迫る 五郎自若として 忠誠を貫く」
と書いてあるらしいですが、もちろん、私には読めません^^;


五郎山

ここから見える五郎山の山頂には、武田勝頼の実弟である仁科五郎盛信の墓があります。
高遠城が落城した際、壮絶な死(自害)をした五郎盛信の屍を、
地元の人々が焼け跡から持ち帰ってこの山に埋葬したことから五郎山と呼ばれるようになりました。
子供の頃、遠足に行きました。
五郎山もまた、あらためて訪問したい場所のひとつです。


桂泉院には武田信玄の父である信虎のお墓や、山本勘助が高遠城を再構築するために、
ここから眺めて縄張りしたという記念の勘助桜もあります。


ここには私の中学生時代の同級生が居たことから、同級生のお父さん(住職)から
野外学習の一環としてお話を聞いたことがあります。
そして梵鐘のことがとても印象に残っていたので?十年ぶりに訪れてみました。
当時は歴史が苦手だったのであまり覚えていなかったのですが、改めて来てみると
見所いっぱいで、住職にもっとちゃんと話を聞いておくんだったなあと後悔して
しまいました。
住職も学校の先生をされていたのでお休みの日に、時間を作っていただいたことを
覚えています。
いつでも来られると思っているところほど、なかなか足を運ばないもので^^;
みんな元気にしているだろうか…。


令和元年8月15日訪問


高遠藩 (シリーズ藩物語)
長谷川 正次
現代書館
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