むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

三条城(新潟県)

2018年08月13日 | 百名城以外の城
三条城さんじょうじょう
別名三条島ノ城
構造平城
築城者三条左衛門
築城年代平安時代
指定史跡
場所三条市上須頃 地図

中世の越後を二分する応永の大乱をはじめ越後の戦乱のたびにこの城が攻防の中心となりました。
その後河道の変化で川欠けとなり江戸時代の初め1616年(元和2年)現三条小学校一帯に
移城を余儀なくされました。




城跡碑の近くにある小さい社。
河川を見守る神様でしょうか?詳細はわかりません。


城跡碑

良く見ると「三条島ノ城跡」と書いてあります。
ということはこれだけ大きな河原になっているので当時は島状になっていて
川を堀として見立てた要害として構築された城郭だったのでしょうか…。
しかし、現在ここには信濃川の氾濫によって城跡に遺構はまったく残っていません。
草を掻き分けて城跡碑の下の方を見ると、案内文が書いてあります。


ということで、三条城の遺構を探しに付近を捜索してみたいと思います。


本成寺の山門

まず、訪れたのは移築門が残ると言われる「本成寺」へやって来てみました。
さてさて、どれが三条城の移築門でしょうか…
どうやらこれではないようです。


本堂

立派な本堂が見えて来ました。
本成寺は1297年(永仁5年)日印聖人によって開かれた法華総本山です。


本成寺鐘楼

木造二層の鐘楼で最初は上層で鐘を撞いていましたが、下層で鐘を撞く形式に変更され
袴腰から外に音を伝えるための華頭窓が設けられています。
梵鐘は第二次世界大戦のために提供されてしまい、現在は現代に造られたものが付いていますが
鐘楼は1758年(宝暦8年)の火災後に建築されたと考えられています。


本成寺多宝塔

室町時代に造立されたという仏像と多宝如来と釈迦如来が安置された一塔両尊で、
こちらも建立時代は隣接する鐘楼とほぼ同時期ですが鐘楼と比べると鐘楼より少しばかり新しいようです。


千仏堂(六角堂)

上杉氏家臣の山吉長久が創建したと伝わる六角形の平面を持つ六角円堂です。
緻密な細工と軒まわりの彫刻や装飾を見るとその豪華さがわかります。
なかなか手が込んでいます。


本成寺の赤門

この大きな山門は、朱塗りが特徴で赤門と呼ばれています。
組みものが柱に差しこむ挿肘木となっていたり、上部の荷重を桁まで延びた柱で支えているなど
建築工法に特徴があることから貴重な建物として新潟県指定有形文化財に指定されています。


本成寺の黒門

これが探していた三城城の城門を移築したという伝承のある薬医門です。


本成寺の由緒

木製の案内看板に書かれた本成寺の由緒は、文字がかすれて読むことが出来ません。



三条城の城門

彫刻の絵様から江戸時代中期頃に建てられたものと考えられています。



城門を避けて脇を車が往来します。
真ん中は車で通っちゃダメよ^^;


他にも三条城の遺構は残ってないかなあ。。。



案内看板

城跡碑に江戸時代に今の三条小学校付近に城を移したことが書いてあったので
北三条駅付近にやって来ました。
ここで偶然三条城跡の案内看板を発見しました!


土盛

なんとなく土塁と想像したい感じの土盛です。
古城田畑絵図を見ると…この辺りは堀があったようです。


古城田畑絵図

この付近一帯は初代三条藩主市橋長勝が江戸時代初期に築いた三条城がありました。
幕府からは「三条城は会津街道抑えの城ゆえ、随分堅固にするように」との
仰せを受けていたそうです。
宅地化が進んでしまい、ここでも遺構はほとんど見られないので
古地図を見て想像しながら歩くしかないです。


三条小路マップ

現代の地図と古地図を照らし合わせ、地名からいろいろ想像できそうです。



最初は川原にある城跡碑だけかあ…とガッカリしたのですがそこ(城跡碑)に
城が移ったことが書いてあったので、散策続行!
信濃川に流され、宅地化で消えてしまった遺構ですが移転先を捜索すると
ちらほら手がかりが見えて来ました。
時間があったらもっといろいろ探してみたいところです。
ちなみに後から判ったことですが、三条信用金庫古城町支店に行くと駐車場入口には
「三条城本丸跡」と記した標柱と店舗入口には「古城田畑絵図」の複製が展示されているそうです。
気が付きませんでした残念。


平成30年7月22日登城


洛中洛外図・舟木本を読む (角川選書)
黒田 日出男
KADOKAWA/角川学芸出版