むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

久米城(茨城県)

2019年08月05日 06時53分09秒 | 百名城以外の城
久米城くめじょう
別名竜貝城
構造山城
築城者大掾氏
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所常陸太田市久米町2035 地図

久米城は、佐竹の分家である佐竹北家が本拠とし、山入氏と対抗していました。
本城、西城、南城の3城からなる複合城郭で南へと続く尾根上には南の出城も構築されています。
鹿島神社付近を本城とし、切岸で郭を区切り尾根筋に郭を築き
山麓には平時の居館があり、屋敷と城下町を構えていました。



駐車場

久米城駐車場があります。
案内板や縄張図などが設置されています。


鹿島神社鳥居

鹿島神社の鳥居のあるところから登城します。



順路に従い登って行きます。
誘導の案内看板があるので道はわかりやすく、道も整備されています。
しかし、この道のコンクリートはとても滑りやすいので雨が降った後は
注意して歩かないとすってんころりんです^^;


田楽場

朱色の鳥居を目前に郭が見えて来ました。
神社の前にあるので、ここで舞を奉納したのでしょうか。


鹿島神社鳥居

緑の中に朱色の鳥居が見えて来ました。
ここでどこから散策しようかと迷いました。
順路は左へ行くようですが、ここはまず鹿島神社へご挨拶をしてからということで
鳥居をくぐって進むことにしました。


鹿島神社

東の城へやって来ました。
ここには鹿島神社があり、まずは参拝。



周囲にはいくつかの祠もあり、すべての祠にご挨拶。



鹿島神社の裏側に回ると、また順路の看板があったので
導かれるようにその方向へ進みます。


虎口

東の城本城前の虎口です。


本城

登りきったところに久米城本城跡の標柱が見えて来ました。



本城から西側を覗き込むと…深い谷です



本城から北側を覗き込むと、西の城の方向へは堀切が


角館の枝垂れ桜

秋田県仙北市から角館の枝垂れ桜が2本寄贈されました。
この枝垂れ桜は久米城を本拠とした佐竹氏が秋田に移封された後、
京の公家の娘を嫁に迎え、嫁入り道具として京都から3本の桜の鉢植えを
持ってきたというのが始まりで、佐竹氏ゆかりのこの地に
宇宙を旅した桜の種から育ったという角館の枝垂れ桜の苗木が贈られました。



順路に従い、東の城から西の城へ向かおうと思います。


虎口

東の城に入る虎口のひとつで、当時は木戸などの門があったと思われます。
虎口は土塁と壁に囲まれ、折れた構造になっているので一段上からの攻撃が可能です。



本郭から覗き込んだ堀切を経て尾根伝いに西の郭方面へと向かう道が続いています。



ここを下りきると大堀切、更にその先を登るとテレビ塔のある西の城です。



下りきって堀底に来ると西側の広い堀底に朽ちたジープがあります。
良い目印ではありますが、なぜここに?と疑問に思う。


堀切

東側を向くと西側とは大違いの幅の堀切になっています。
つまり東の城と西の城との間の大堀切の起点になる場所とも言えます。



堀底からジープの方へは後で行くとして、まずは西の城へ登る道を進んでみましょう。


テレビ塔

登りきると平場に出ました。
テレビ塔の建つこの郭が西の城になります。


西の城

この郭は「竜神平」とも言うようです。


二の曲輪(西の城)

西の城には二重堀と言われる二本の堀切と竪堀が残っています。
この堀切は右側の崖地の方に向かって竪掘になっています。


三の曲輪(西の城)

二の曲輪と三の曲輪の間にも堀切があり、北側は切立っているうえに土塁で防御しています。


土塁

順路ではこの土塁の上を歩くのですがよろけて外側に転んだら…
ちょっとこわい場所です。
まだ先は続くようですが、時間の都合で三の曲輪で引き返すことにしました。



テレビ塔の裏に物見台があるようなので行ってみようと思います。


物見台

物見台にはなんと親切に双眼鏡が設置されています。
最初は何が入っているのだろう?と思ったのですが箱を開けたら双眼鏡でした。
箱にはマジックで何か書かれていたようですが、もう文字が薄くなっていたので
箱を開けて「おお~!」と宝箱を開けた気分になりました。


眺望

これだけの眺望がありますからねえ。
そしてこの方向の奥の中央左側には、山入氏の山入城があります。
久米城は一時期山入氏に奪われ佐竹義治が奪還しています。



物見台から見た北の出城方面です。


北の出城

物見台から続く尾根伝いに進むと北の出城へ行くことが出来ます。
ちょい寄りのつもりがどんどん引き寄せられて結局物見台まで誘われて来たのですが
北の出城まで行ってるだけの時間に余裕が無く物見台からズームで見てみました。


今度はジープのあった大きな堀を西に向かって下ってみたいと思います。


ジープ

草の生えたジープ。
どうやってここまで来たのだろう???
テレビ塔があるということは、当然その資材を運んで来たであろうから
工事用の道があったということかな。
置き去りになってるのがジープってとこがちょっと軍事っぽくて
まったく似合わないというほどではないように見えてくる。



左上は本城、右上は西の城です。
しばし幻想的な空間を下って行きます。


垂直の崖

道の左側が崖になっているところまで来ました。
岩肌が見えています。


二つ目の崖

岩盤の急崖でV字谷を形成されています。


谷底

写真では高さ(約8メートル)が表現しきれてなにのですが、落ちたら確実にヤバイです!
水がちょろちょろ流れていて、水量がある時は滝のようになるのかな?と想像します。


ロープ
垂直の崖底を覗きに行くためには危険な場所を通るため、ロープが設置されています。
足を滑らせて転落したら…
ということにならないように、油断せず、しっかりとロープを握りながら歩きましょう。



二つ目の崖から引き返し、本城の東下を通って戻ることにします。


三の曲輪(本城)

主郭の東側にある本城の三の曲輪です。


堀切

主郭と三の曲輪の間には堀切があり、そこを通路(順路)としています。
鹿島神社の朱色の鳥居のところまで戻って来ました。


参道

参道まで戻って来ました。
普通のスニーカーで来てしまったので滑る滑る^^;
カメラを守るの必死でヨチヨチ歩きで下って行きました。
そろそろ登山用の靴も買わなくちゃかなあ。。。
ともかく苔と落ち葉でも滑りやすくなってますのでお気をつけあれ。


正念寺

正念寺の駐車場へやってきました。
ここにも案内看板が設置され、正念寺の裏から南の出城へと散策できるルートが
整備されています。



久米城全体を撮影出来る場所を求めて車を走らせていたら神社と案内看板を見かけたので
何か関連があるのかな?と思い寄り道してみました。
すると、こちらも鹿嶋神社でした。
こちら側からも登れるのか?と思ったのですが、距離的にも別の神社でした。


鹿島神社

こちらの鹿島神社は全国に約600社あるという鹿島市の鹿島神宮を総本山とする神社で、
江戸時代に徳川光圀(水戸黄門)が大平村の鎮守として創建したと伝わります。



この階段は182段あるそうです。
見上げただけで、引き返す^^;


眺望
電柱がだいぶ傾いて写っていますが、心配なかれ。
広角レンズで久米山全体が入るように撮影した結果なので異常ではありません^^;
大堀切の部分のシルエットもはっきりわかりますね。


久米城は想像以上に広くてメリハリのあるとても面白い城でした。
案内看板や印刷物、順路などよく手入れされていて管理が出来ている良い城跡です。
ちょっと時間が足りませんでした^^;
急いで回る城跡ではなかったですね。
これを見たら、山入城にも行ってみたくなりました。また楽しみが増えたというものです。


令和元年7月13日登城


図説 茨城の城郭
茨城城郭研究会
国書刊行会
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岡城(長野県)

2019年07月31日 06時42分11秒 | 百名城以外の城
岡城おかじょう
別名岡村城・古城・小県岡城
構造平城
築城者馬場信房
築城年代1561年(永禄4年)頃
指定史跡市指定史跡場所上田市岡 地図

岡城の築城時期は不明で文献などから推測で永禄4年~7年の間に築城されたものと思われます。
村上義清の葛尾城を落してから、松代に海津城を築くまでの間の川中島進出の
重要な前線基地でもありました。
武田方の築城であることの特徴がよく見られ、東、西、北の三ヶ所の虎口には
三日月堀の伴う丸馬出がありました。
現在は宅地や水田と化され、岡城跡公園となっています。



案内看板

東の虎口付近に案内看板があります。
ここには土塁と堀が見られますが、東側にあった東の丸馬出は宅地となり
残念ながら、今は消滅しています。


駐車場

案内看板のある土塁の脇に2台分の駐車スペースがあります。
こちらに車を置いて散策しました。


縄張図

案内看板は2ヶ所設置されていて、その中に縄張図が描かれているので
それを基に散策しました。


空濠

まず、車を置いた東の虎口から見える北側の外堀が少し浅くなっていますが
横幅もあり、とても良く見えます。


標柱

外堀に沿うように高く盛られた土塁上に岡城跡の標柱が設置されています。



上に登ると公園らしくベンチや遊具があります。



更に一段高くなった場所があります。



一番高いこの場所には、あずまや、石碑、石祠があります。


岡村城の由来

岡城と呼ばれる前は岡村城と呼ばれていたのですが、
地名から名付けられたことが記されています。
この碑によると武田方馬場氏より以前築城されていたことが記されていますが
諸説あるので実際はいつ頃誰の築城なのかは解明されていません。



小高くなっているので全体的に周囲を見渡すことが出来ます。



堀に沿って北側の丸馬出に行ってみたいと思います。


北の丸馬出

住宅があるものの、なんとなく丸みのある土地であることがわかります。


主郭北の虎口
主郭への虎口にあたります。
その先の団地の中が主郭になりますが宅地になっていて遺構はほとんど何もありません。
うろうろできる状況にもないので、ここは通り過ぎるだけにしました。



主郭を囲む内堀と北西角の土塁に当たる位置で、石垣の一部が見えます。


内濠
この場所には案内看板と道祖神がある場所で、主郭を囲む西側の内堀が良く見える場所です。


主郭西の虎口

先ほどの場所から東側を見ると、西側の主郭虎口があり土塁の名残も確認出来ます。


西の丸馬出跡

この辺りに西の丸馬出があったとされていますが、現在は田んぼになっていて、
輪郭は残る…と本では読んだのですが、丸馬出はありませんでした。


濠と土塁
なんとな~く残る土塁と堀跡。


上田原合戦、川中島合戦と信玄が大きく係る重要な拠点です。
重臣である馬場美濃守が関与した城であることは間違いないようです。
三日月掘を用いた丸馬出が残っていたら…
現代であれば、かなり話題性のある城跡であったろうと想像します。

千曲川を挟み多くの城が築かれ歴史に残る戦いと、
沢山のドラマがこの辺りには溢れています。
本当はこんな簡単な紹介では済まない多くの物語があるのでいろいろ調べてると
なるほど~というエピソードがいっぱいなのです。
文章が下手くそなので、それはまた追々ということで。。。。


令和元年7月20日登城



甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館



[新装版]戦国武田の城
中田 正光
洋泉社
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上田古戦場(長野県)

2019年07月29日 06時47分25秒 | 古戦場
上田古戦場うえだこせんじょう
合戦名上田原合戦
合戦者村上義清vs武田信玄
合戦年代1548年(天文17年)
指定史跡
場所上田市上田原 地図

諏訪、佐久地方を平定した武田晴信(信玄)は、北信濃への進出を企てこの地にやって来ました。
上田、小県地方に勢力を延ばしていた村上義晴がこれに応戦、1548年(天文17年)ついに
上田原合戦へと突入しました。
この合戦で武田方は板垣信方などの有力な武将を失い、晴信(信玄)自身も手傷を負い
撤退を余儀なくされ、数少ない晴信(信玄)の負け戦となりました。



上田古戦場公園

この案内看板がある場所は上田古戦場公園の多目的グラウンド側入口にあります。
古戦場公園には駐車場があるので周辺散策にはここを利用すると良いです。



武田信玄が負け戦となった戦いが、上田では二度ありました。
1548年(天文17年)の上田原合戦と、
1550年(天文19年)の砥石城の戦い(砥石くずれ)です。


上田原合戦戦没将士菩堤寺入口

「上田原合戦の地」の碑があります。


荒砥城から岡城へと行く途中、上田道と川の駅に寄った時に上田原合戦場と知り
その場でちょっと調べて、せっかくなので寄り道してみました。
そもそも予定していなかったことで時間もあまりなかったので中途半端な内容となりました。
でも、上田を訪れた際に時間に余裕がある方はこちらも散策されてみても良いのかと
思います。
私も今後通りすがったらもう少し散策してみようかなと思います。


令和元年7月20日訪問


信濃上田城 (シリーズ・城郭研究の新展開5)
和根崎 剛
戎光祥出版
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山方城(茨城県)

2019年07月27日 10時12分42秒 | 百名城以外の城
山方城やまがたじょう
別名御城・御城館
構造丘城
築城者山方能登守盛利
築城年代1408年(応永15年)頃
指定史跡
場所常陸大宮市山方313 地図

山方城は、佐竹氏の重臣の山方能登守の居城跡で、御城と呼ばれ
南郷街道に沿った水上交通上の中間地点として重要地点でもありました。
御城、中ノ城、外城の三つの郭からなり、南側には山方宿がありました。
平時は本城、中ノ城に住み、戦時は高館山頂の詰城に移り住んだものと思われます。



駐車場

無料駐車場完備です。
ここから少し歩くことになりますがありがたいことです。



この先に駐車する場所が無いので車はここに置いて歩くことになります。


嘆願橋

駐車場脇にある皆沢川にかかるこの橋は、かつて農民が御城の領主に願い事をする際
ここまでしか入ることが出来ず、ここで言上したことから「嘆願橋」と呼ばれるようになりました。


南郷街道

水戸を起点に南郷(現福島県塙町、棚倉町)に至る道です。
城域内を通っていることから案内看板が設置されています。
御城展望台へは看板に従って進みます。


御城展望台入り口

この先は車での侵入は出来ません。
管理棟の係員さんの車がこちらに停められています。
足の不自由、身体の不自由な方なら、駐車スペースではありませんが、
かろうじてここの前に乗用車が一台停めさせてもらえるかなと思われます。



入口から遊歩道に入ると趣のある石畳で、城跡というよりは
やはり公園の雰囲気で迎えられます。


空堀と土塁

入口から歩き始めて間もなく、空堀と土塁が見えて来ました。


矢篠(矢竹)

藪のようになってますが、このように矢竹の群生がみられます。
矢竹は稲科の竹で、真っ直ぐで節間が長く矢の材料として用いられ、
よく山城で見かけることがあります。
御城でも城内全域に 矢竹を植えて戦に備えていたものと思われます。
ちなみにここは本城と中ノ城の間の堀切です。



御城展望台は有料です。


御城展望台

御城展望台が見えて来ました。
この展望台は山方家の子孫の方、資料だけでなく建設費の一部を寄付されています。


管理棟

9月1日まで「学びのスタンプラリー」を開催しているので、これに参加すると
団体料金で入城することが出来ます。


天守入口
現在は東京にお住まいという山方家の子孫の方々から寄贈された
山方氏関係史料は御城展望台内の展示室で見ることができます。


腰庇

天守(展望台)と石垣の隙間を埋める腰庇は、丸岡城を思い出させる造りになっています。


1階

ここで靴を脱いでスリッパに履き替えて見学します。



山方氏の子孫の方から寄贈された山方氏関係史料や、
国道118号線バイパス建設工事に伴い昭和61年に発掘調査が行われ、
その際に出土した土器類が展示されています。


縄張図

御城と高館山の詰城の縄張りです。


2階

2階には展示物はありません。
そして、にこやかにほほ笑む「地蔵菩薩立像」がこの展望台から見守っています。



破風も再現されていて、天守らしい造りや飾りがチョイスされています。
もちろん屋根には鯱鉾も載っています


中ノ城
本城と中ノ城の間の堀は藪になっていて入って行けなかったので
展望台からの眺めで確認。
畑の部分が中ノ城、その奥の住宅地が外城になります。



こちらの窓からは市街地の様子が見えます。


学びのスタンプラリー

夏休み企画「学びのスタンプラリー」開催中!
スタンプラリーの台紙をもらって展望台を入ったところでスタンプを押します。
管理棟でもらったシールを貼るのですが…私にはセンスが無いなあと痛感(>_<)
後に続いて貼った人がどう思ったか…心配です
私が訪れたこの日から開催となり、意としたわけではなかったのですが一番乗りでした^^;



晴れていたら格好良く見えたんだろうなあ。
天守に青空は重要です!


梅林

本城北側は梅林になっています。



それではそろそろ御城展望台をあとにしたいと思います。


堀切

中ノ城と外城との間の堀です。



中ノ城と外城との間の堀を進んでみると、途中で舗装路は途切れて
軽トラ1台分の幅しかない道になっていました。


夏場は山城に行くのは厳しいと思い、建物がある城跡に行こうと検索して
こちらにやってきました。
でも実はここに来る前に、入口までのつもりで覗いた山城へ「あともう少し…」と言いながら
結局登って来てしまいました。
本来の目的地であった山方城へ来た時には、だ~れもいなくて貸し切り状態だったので、
城主気分でまったりできました。


令和元年7月13日登城



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小沢城(群馬県)

2019年07月24日 06時53分15秒 | 百名城以外の城
小沢城おざわじょう
別名沼田館・沼田城
構造崖端城
築城者沼田景朝
築城年代1405年(応永12年)
指定史跡市指定史跡
場所沼田市甲2038 地図

小沢城は三浦系・沼田景朝が荘田城から移り、小沢川の崖端に築いた城です。
沼田氏の幕岩城へ移るまでの4代114年間、居城にしていました。



入口
四釜川の崖端に築かれた城で、入口には「沼田平八郎景森の墓」の看板があり、
従うように道を登ると小沢城(法城院)に辿りつきます。


法城院

現在は法城院があるこの場所に案内看板が設置されています。



内郭の南側(崖側)は蒟蒻畑になっています。


平和観音尊像

この辺りに内郭と中郭との間の土塁と堀、虎口があったと思われますが
今は土塁はなんとなく名残が見え、堀は見当たりません。


土塁と虎口

内郭の土塁は東側に残されているものが比較的良好に残っています。
墓地のあずまやの右側に見える土塁がしっかり残っています。


沼田大明神

沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の遺骸を此所に葬り沼田大明神として祀った神社です。
また法喜庵(法城院)を建て霊を弔いました。


沼田平八郎景森の墓

沼田景義は沼田城主12代顕泰の側室の子で沼田氏最期の主将です。
この墓は、金子一族の子孫である利根村大原金子重右衛門照泰らにより作られ、
1780年(安永7)年納められたものです。


土塁

外側の土塁いは良好に残っています。
内側にあった土塁も東側に残っている土塁と見比べてもおそらく同じ位の
高さがあったのでしょうが畑になってしまったのでしょう。


虎口

間知ブロックで補強されていますがはっきりとわかる北側外の虎口です。


空堀

虎口を出ると、そこには空堀があります。
堀と土塁で高さを増しています。



堀底が道になっていますが、堀であったことがよくわかります。



内側から見た北の虎口です。


中城

この面が広いので、がっつり畑になっています。



内郭と外郭の境界となる土塁は、このように何も残っていません。


井戸

昔からあった井戸を現代でも畑に利用しているのかと思って注目してみたのですが
帰宅して縄張り図を見てみたものの、井戸の記載はありませんでした。
位置としても井戸があっても良い場所だと思ったのですが…。


東の虎口
東の虎口から右に入って行けそうだったのでちょっと様子を見に行ってみました。


東南の虎口

わずかな土塁が残っていて、奥には草で覆われていますが下に続く階段がありました。
この道は古くからあるもので南の虎口へと繋がる道であったようです。


沼田平八郎景森の墓の看板があったものの城跡への案内看板がみつからなかったので
周辺をうろうろしてから法城院へ。
何も残っていないのかと思いきや、土塁も堀も残っていて特に北側の堀と土塁、虎口のセットが
良い感じであったので収穫あり!でした。
ぜひ、北側をご覧くださいませ


令和元年7月6日登城


戦国史 上州の150年戦争
簗瀬 大輔,久保田 順一
上毛新聞社 出版部

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