その①の続き
日本美術愛好家らしく来日したフレディは日本で骨董品ばかりでなく最新流行の服、家電製品も買い漁る。一時間も経たない内に百万ポンド以上も使ったことも あるので、さすが世界の大金持ちは違う。買い物の中に日本の青い色の火鉢もあったのは面白い。彼は特に青い火鉢を求めていたのだが、我家にも昔青色の火鉢 があった。外国人が見ると、火鉢も印象が違うのだろう。
フレディはツツジの花が大好きだった。「日本に出かけるのに一番いいのは春だよ。ツツジが真っ盛りでね」とよくジムさんに話していたという。この花はフレディの豪邸の庭を飾ることになる。そして池を作り、そこには日本の錦鯉が飼われる。
「日本に来たんだから日本人みたいにしなくちゃいけない」とのフレディのポリシーで、彼ら一行はホテルの和室に泊まる。風呂に入るのも日本式を通し、西欧風の入浴をしようとしたジムさんに注意する。「日本人はそういうやり方はしない。日本にいるんだから日本式にやらなきゃ」。親日家でもここまで徹するのは稀なのではないか。日本にいても日本式にやらない民族の方がほとんどだが。ジムさんには何でも所有しているフレディが、床に寝て日本人の生活を真似ることにこれ程興奮するのか、不思議がっていた。
日本で酒風呂の話を聞いたフレディはそれを実行する。木のバスタブ(おそらくヒノキ)に日本酒を入れ、ジムさんと一緒に入った。アルコールが肌を引き締め る感触はよかったものの、「素面で酒風呂に入ると、出るときは酔っ払う」状態となるらしい。女なら牛乳やバラ風呂を望むが、酒風呂は男の夢だろう。
フレディは大の風呂好きであり、朝起きて一番にゆったり風呂に浸かっていたそうだ。朝寝朝酒朝湯が大好きと小原庄助的人生を送っても、身上つぶすどころか莫大な財産を残しているのは見事だ。
本にはフレディのエイズ闘病が詳しく記されている。エイズ発病を知った彼はジムさんにそれを告げ、「僕と別れたいというなら構わないよ。もし君が僕を置いてガーデン・ロッジ(フレディの館)を出て行きたいのなら止めない。その気持は分かるから」と言う。ジムさんにもエイズ検査を受けるよう勧める。
「君を見捨てたりしない、どんな時だって」― ジムさんは彼にこう宣言したとおり、病に蝕まれていく恋人を最後まで看護する。しきりにフレディが検査を勧めたにも係らず、ジムさんはなかなか受けなかっ た。もし自分も感染していたなら、そのことで彼に罪の意識を感じさせてしまうから。しばらく後受けた検査の結果は陽性だった。
フレディが精神力の真の強さを発揮するのはこれ以降だ。不治の病に侵されながらも、残り少ない人生を全て音楽創作活動に奉げる。並みのミュージシャンならとうに重圧で押し潰されていただろう。ジムさんの本にも「フレディはどれほど辛くても誰にも愚痴をこぼさなかったし、どんな同情も求めようとしなかった」 とあり、ふらつきながら自宅の階段を下りる際、思わず手を差し伸べようとしたジムさんの手を払ったこともある。なんと気丈で誇り高い人物だろうか!「その 性格に石のように堅固なところを持って」「その成員は誰も、苦しい時にも他宗教の者に施しを求めることはしない」と書いたゾロアスター教学者のメアリー・ ボイス教授の言葉そのものだ。
有名人となればマスコミの格好のネタにされるのは英国も同じ。フレディの死亡する何日も前から何十人もの 取材陣がガーデン・ロッジを取り囲んでいたそうだ。フレディと親しかったエルトン・ジョンが見舞いに来ても、たちまちカメラマンに包囲され、見舞いもまま ならない。バンドメンバーのロジャー・テイラーもマスコミを避けるため夜に見舞いをするが、やはり記者から逃れられなかった。有名人の不自由さは凡人の想 像を超える。ジムさんの言葉を引用したい。
「フレディが可哀想に思えることが僕には何度もあった。彼は全てを持っているのに―金も成功も自分のものなのに一度も普通の生活が出来なかった。町を歩いていても、買い物に出かけても、必ず皆にじろじろ見られる。彼はそれをひどく嫌っていた」
いかに強靭な精神を持っていても、病は心身ともにフレディを蝕んでいく。死の直前頃は実に痛ましい描写が続く。果物のマンゴーさえ飲み込むことも吐き出す ことも出来ず、使用人が口をこじ開けて取ってもらう有様。もはやベットから起き上がれず失禁したことも記されていたのは胸が痛む。ジムに語った最後の言葉 は「おしっこ、おしっこ!(に行きたい)」だった。
ジムさんはアイルランド人でカトリックだった。フレディとは宗教の話は何もしなかっ たというが、これは賢明だ。宗教、民族は異なっても最終的に愛しあえるのは人間性だろう。夭折したといえ最後まで恋人が寄り添い、穏やかな思いで永遠の眠 りについたのは、彼の人徳も大いにあるのだ。フレディ・マーキュリー、人生と歌を愛した男。
◆関連記事:「フレディ・マーキュリー ロックスターになったパールシー」「ボヘミアン・ラプソディ」
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日本美術愛好家らしく来日したフレディは日本で骨董品ばかりでなく最新流行の服、家電製品も買い漁る。一時間も経たない内に百万ポンド以上も使ったことも あるので、さすが世界の大金持ちは違う。買い物の中に日本の青い色の火鉢もあったのは面白い。彼は特に青い火鉢を求めていたのだが、我家にも昔青色の火鉢 があった。外国人が見ると、火鉢も印象が違うのだろう。
フレディはツツジの花が大好きだった。「日本に出かけるのに一番いいのは春だよ。ツツジが真っ盛りでね」とよくジムさんに話していたという。この花はフレディの豪邸の庭を飾ることになる。そして池を作り、そこには日本の錦鯉が飼われる。
「日本に来たんだから日本人みたいにしなくちゃいけない」とのフレディのポリシーで、彼ら一行はホテルの和室に泊まる。風呂に入るのも日本式を通し、西欧風の入浴をしようとしたジムさんに注意する。「日本人はそういうやり方はしない。日本にいるんだから日本式にやらなきゃ」。親日家でもここまで徹するのは稀なのではないか。日本にいても日本式にやらない民族の方がほとんどだが。ジムさんには何でも所有しているフレディが、床に寝て日本人の生活を真似ることにこれ程興奮するのか、不思議がっていた。
日本で酒風呂の話を聞いたフレディはそれを実行する。木のバスタブ(おそらくヒノキ)に日本酒を入れ、ジムさんと一緒に入った。アルコールが肌を引き締め る感触はよかったものの、「素面で酒風呂に入ると、出るときは酔っ払う」状態となるらしい。女なら牛乳やバラ風呂を望むが、酒風呂は男の夢だろう。
フレディは大の風呂好きであり、朝起きて一番にゆったり風呂に浸かっていたそうだ。朝寝朝酒朝湯が大好きと小原庄助的人生を送っても、身上つぶすどころか莫大な財産を残しているのは見事だ。
本にはフレディのエイズ闘病が詳しく記されている。エイズ発病を知った彼はジムさんにそれを告げ、「僕と別れたいというなら構わないよ。もし君が僕を置いてガーデン・ロッジ(フレディの館)を出て行きたいのなら止めない。その気持は分かるから」と言う。ジムさんにもエイズ検査を受けるよう勧める。
「君を見捨てたりしない、どんな時だって」― ジムさんは彼にこう宣言したとおり、病に蝕まれていく恋人を最後まで看護する。しきりにフレディが検査を勧めたにも係らず、ジムさんはなかなか受けなかっ た。もし自分も感染していたなら、そのことで彼に罪の意識を感じさせてしまうから。しばらく後受けた検査の結果は陽性だった。
フレディが精神力の真の強さを発揮するのはこれ以降だ。不治の病に侵されながらも、残り少ない人生を全て音楽創作活動に奉げる。並みのミュージシャンならとうに重圧で押し潰されていただろう。ジムさんの本にも「フレディはどれほど辛くても誰にも愚痴をこぼさなかったし、どんな同情も求めようとしなかった」 とあり、ふらつきながら自宅の階段を下りる際、思わず手を差し伸べようとしたジムさんの手を払ったこともある。なんと気丈で誇り高い人物だろうか!「その 性格に石のように堅固なところを持って」「その成員は誰も、苦しい時にも他宗教の者に施しを求めることはしない」と書いたゾロアスター教学者のメアリー・ ボイス教授の言葉そのものだ。
有名人となればマスコミの格好のネタにされるのは英国も同じ。フレディの死亡する何日も前から何十人もの 取材陣がガーデン・ロッジを取り囲んでいたそうだ。フレディと親しかったエルトン・ジョンが見舞いに来ても、たちまちカメラマンに包囲され、見舞いもまま ならない。バンドメンバーのロジャー・テイラーもマスコミを避けるため夜に見舞いをするが、やはり記者から逃れられなかった。有名人の不自由さは凡人の想 像を超える。ジムさんの言葉を引用したい。
「フレディが可哀想に思えることが僕には何度もあった。彼は全てを持っているのに―金も成功も自分のものなのに一度も普通の生活が出来なかった。町を歩いていても、買い物に出かけても、必ず皆にじろじろ見られる。彼はそれをひどく嫌っていた」
いかに強靭な精神を持っていても、病は心身ともにフレディを蝕んでいく。死の直前頃は実に痛ましい描写が続く。果物のマンゴーさえ飲み込むことも吐き出す ことも出来ず、使用人が口をこじ開けて取ってもらう有様。もはやベットから起き上がれず失禁したことも記されていたのは胸が痛む。ジムに語った最後の言葉 は「おしっこ、おしっこ!(に行きたい)」だった。
ジムさんはアイルランド人でカトリックだった。フレディとは宗教の話は何もしなかっ たというが、これは賢明だ。宗教、民族は異なっても最終的に愛しあえるのは人間性だろう。夭折したといえ最後まで恋人が寄り添い、穏やかな思いで永遠の眠 りについたのは、彼の人徳も大いにあるのだ。フレディ・マーキュリー、人生と歌を愛した男。
◆関連記事:「フレディ・マーキュリー ロックスターになったパールシー」「ボヘミアン・ラプソディ」
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実は私もクイーンをリアルタイムで聴けた世代なのですが、初めてフレディを見たのは「Radio Ga Ga」のPVで、印象は悪かった。
ヒゲとあの濃すぎる胸毛、オーバーアクションに圧倒され、好きになれませんでした。そのため残念なことに、クイーンを敬遠してしまったのです。クイーンを聴くようになったのは、フレディの死後5年も経過してからでCMがきっかけでした。もっと早く聴いていればよかったと後悔しています。
クイーンファンになる前から、私は個人的にゾロアスター教に関心があり、フレディが教徒だったと知った時は驚きました。彼のルーツを調べているファンは至って少ないでしょうね。
初めまして。コメントを有難うございました。
クィーンのコンサートに行かれ、直にフレディをご覧なられたとはとても羨ましい!↑でもコメントしましたが、私がファンになったのは、フレディの死後5年もしてからです。生で見られた世代なのに、ビデオでしかクィーンを見たことがありません。
ただ、1998年のブライアン・メイの来日コンサートに行ったことがありましたが、よかったですねぇ…これが全盛期のクイーンだったら、どれほどよかったのか、と想像してしまいました。
フレディ・マーキュリーの記事をさがしていてここにたどり着きました。
まさに、私がさがしていた内容でしたので、何度も繰り返し読みました。
ありがとうございました。
また、遊びに来ます。
この記事を何度も読まれたということは、貴女もフレディ・マーキュリーの熱心なファンということですよね。私の方こそ、繰り返し読まれて頂き、有難うございました。早いもので今年はフレディ没後20年目となります。
今後とも拙ブログを何卒お願い致します。
もうすぐ11歳になる息子が、クイーンの曲を聴きながら「この人はイギリス人に間違いない。」というので、確かめるためにフレディ・マーキュリーを検索していて、こちらにたどり着きました。(私は恥ずかしながら全く英語の聞き取りはできないので。笑)
フレディ・マーキュリーが既に亡くなられている事実が、息子には残念でたまらないそうです。今も生きていたらどんな歌声が聞こえたかと思うと残念だそうです。
どんな生活をしていて、どんな病気で、最後がどうだったのか、、、。
ちょっと子供には刺激が強すぎる感もありますが話をしたところ「人間同士が好きになって悪いことは無いよね。たとえそれが同性でも。戦争より悪いものはないよね。なのに病気になって死ななきゃいけないなんて、あんまりだよね。」と言ってました。
こちらのブログのおかげで息子に色々説明できました。有難うございました。
フレディ・マーキュリーを辿っていたらこちらへ来ました。。
興味深い内容が書かれていて、
フレディのことを知りたかったのでとても嬉しかったです。。
クイーンをリアルタイムで聞けた年齢なのに、いまさらなのですが
この年になったから、クイーンが受け入れられるようになったのかもしれませんね。。
本当にありがとうございました。。
宮城となっておりますが、先に大震災は大丈夫だったのでしょうか。。
11歳になる息子さんがクイーンの曲を聴いているとは、現役で聞けた年代からすれば嬉しい限りです。私自身も日本語オンリーなので、英語の歌詞は聞き取れません(笑)。
息子さんの言うとおり、フレディは生まれた時(1946年)から“イギリス人”だし、国籍はイギリスでした。ただ、ハットン氏に言わせると、ゆったりとした妙なアクセントがあったとか。インド訛の英語を話していたはず。
仰る通りフレディの死の説明は子供には刺激が強すぎます。しかし、息子さんの感想はとても11歳とは思えないほどお見事ですね。フレディの宗教ゾロアスター教は「聖戦」を説いていますが、彼は決して狂信者ではありませんでした。フォークランド紛争でも、「こちらの若者があちら(アルゼンチン)の若者を殺している。殺し合いに正義などない」と発言して、マスコミはもちろん同業者からもバッシングされたそうです。
とかく戦時には世論に迎合したがる人気商売でありながら、この発言は胸がすきます。
私自身もクイーンをリアルタイムで聞けた世代です。しかし、先のコメントにも書いたように、初めてフレディを見たのは「Radio Ga Ga」のPVで、印象は悪かった。ヒゲとあの濃すぎる胸毛、オーバーアクションに圧倒され、好きになれませんでした。そのため残念なことに、クイーンを敬遠してしまったのです。
クイーンを聴くようになったのは、フレディの死後5年も経過してからでCMがきっかけだったのです。今でもよくCMにクイーンの曲は使われており、改めてその良さが感じられます。
私は宮城県仙台市在住ですが、幸いなことに大震災では家族も家屋も無事でした。残念なことに知人には被災者、行方不明者はいます。